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情欲の檻~私の中の赤い花~

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 夕方、上がったばかりの雨の名残か、道端の紫陽花の花がしっとりと雨露に濡れていた。梅雨が深まれば、この今はまだ淡くしか色づいていない紫陽花はやがて深い海色に染め上がるに違いない。
 祥吾とのことがなければ、この紫陽花も初夏の美しい情景のひとこまとして映ったかもしれないが、今の美華子にはただ紫陽花が心ない雨に打たれ、うなだれ泣いているようにしか見えなかった。
 それでも、花にはまだ救いがある。今年、誰に愛でられず散ってしまっても、また来年があるから。だが、生き身の女は盛りの時期に幾ら美しく花開いても、愛でる人がおらず時が過ぎれば、散っていくだけ。本物の花のように来年、また花咲かせることなんて、できはしない。
 美華子は、この時、はっきりと悟った。もしかしたら、自分が祥吾へ拘り続けるのは、愛情でも独占欲でもなく、ただの執着ではないか。しかも、祥吾という男自身へのものではなく、彼のために精一杯咲いた美華子の女としての三年間への哀惜。それがして、美華子に祥吾から離れがたくさせているのだとしたら?
 自分はこの三年という日々を無駄に過ごしてしまった。そんな想いを否定したいがために、いつまでも煮え切らぬ男への未練を抱いているのでは。
 二十五歳から二十八歳といえば、女の盛りの時期だ。その花ならば見事に咲き誇る時期を、ただ身体を求めるだけの卑劣な男に捧げて無為に費やした。そんな現実から眼を背けるため、美華子はいまだに自分は祥吾を愛しているのだと思っている。いや、思わせようとしている。
 だが、所詮、そんなものはごまかしにすぎない。現実は現実で、そこから逃れることはできないし、たとえ盛りの時期は過ぎても、美華子の人生はまだまだこの先も続いてゆく。
 かといって、これから先、心底から美華子を求め、彼女の人間としての価値を見つけてくれる男が現れないとは限らない。そう、かつて美華子に真摯にプロポーズしてくれた大学時代の彼のように。
 これから先の未来で、美華子は幸福になれると決まっているわけではないけれど、また、必ずしも不幸になると決まっているわけではないのだ。そのことは美華子の心を少しだけ明るくする。暗闇の中でひとすじの光を見出したかのような心もちだった。
 それでも、美華子はまだ一歩が踏み出せないでいた。最早、自分が祥吾を愛しているのだとは思わない、思えるはずがない。
 とはいえ、祥吾と続けてきた関係をすっぱりと断ち切って、三年間を過去として完全に封印する勇気もまた持てないのだ。
 自分の優柔不断さ、意気地のなさがつくづく恨めしい。巡る想いに応えはない。
 美華子はもう一度、紫陽花を見つめてから、ゆっくりと歩き出す。まるでその先に、彼女が見つけ出す応えが待っているのを恐れるかのような緩慢な足取りで。
 先刻より紫陽花が心なしか色を深めたような気がするのは、気のせいだろうか。

 更に二日を経た金曜日の朝になった。美華子は目覚めた時、ナイトテーブルの上に置いてある携帯が点滅しているのに気づいた。
 一瞬、嫌な予感が駆け巡る。しかし、小さく首を振り、二つ折りの携帯を手に取った。何も嫌がらせメールだとは限らない。祥吾からということもあったし、今もよく行き来している高校時代の親友ということも考えられた。
 画面には新着メールの表示があった。クリックすると、差出人の欄には名前がない。嫌な予感は最早、決定的なものとなりつつあったが、ここまで来てメールを見ないで削除することもできなかった。眼を閉じて思い切って、メールを開く。
―お前の恋人は浮気している。
 今度は、たった一行。これだけだった。
 しかし、その意味は大きい。いや、祥吾が自分以外の複数の女たちと関係を持っているのは知っている。今更それを突きつけられたからといって、それだけで仰天したりはしない。が、このメールの中の?浮気?というのは、これまでの祥吾が拘わってきた、かりそめの恋とは違うような気がした。
 これもやはり勘だとしか言いようがない。さしたる根拠もないというのに、浮気のひとことで、四日前となった月曜日の夜の出来事がまたしても甦ってくるのだった。
 スマホを片手に熱心に話し込んでいた祥吾の後ろ姿や横顔が今もありありと眼裏に浮かび上がる。
 美華子の中の疑念はますます膨らんだ。彼女は携帯電話を折りたたみ、唇を噛みしめた。これはもう、直接、祥吾と対峙するしかない。その時既に結果は予測できてはいたけれど、心の区切りをつけるためにも、男との最後の対決は必要なように思われた。
 三年という長い月日にピリオドを打つのだ。確かに相応の覚悟は必要だった。美華子はともすれば怯みそうになる心を懸命に叱咤した。

 その日は祥吾と約束があった。いつものように?ドルフィン?で待ち合わせ、彼の運転する車の助手席に乗り込んでホテルに向かった。南欧のオシャレなリゾートホテルを彷彿とさせる白亜の建物が手前に見え始めた時、美華子はさりげなく口にした。
「そういえば、四日前に変なメールが来たの」
「メール?」
 その時点では、祥吾はまだ気のない様子で、特に話に気を止めている様子はない。美華子は更に言葉を重ねた。
「そう。何か気になるのよね。死ねだとか、私の彼を返してだとか」
 美華子はバッグから携帯を出し、メールメニューをクリックした。
「他人の男を横取りするような女は死んでしまえって、そんなことも書いてたわね。届いたのは午後七時三分になってる」
 傍らの祥吾が醸し出す雰囲気が完全に変わっている。そのことに、美華子はますます確信を深めた。間違いない、祥吾はメールの送り主に心当たりがあるのだ。
「祥吾さん、心当たりはある?」
 さらりと訊ねると、強ばった声が返ってきた。
「馬鹿言え。何で俺に心当たりがあるんだ?」
「だって、以前も妹さんのお友達と何か間違いがあったって、祥吾さん自身が話してくれたじゃない」
「いつのことを言ってるんだ! あれはもう過ぎたことだろう。嫌みな女だな、お前は、過去のことをいちいち持ち出して」
 そんなに嫌であれば、自分から女に浮気のことなんて暴露しなければ良いのに、話したのは祥吾自身ではないか。そう言いたかったが、今は我慢だ。
「それに、祥吾さんはモテるしね」
 さりげなく男の優越心をくすぐるのも忘れない。
「まっ、まあ、そんなこともないけどな」
 と、すぐに機嫌を直すところは単純な子どものようである。
 ホテルに到着し、いつものように地下の駐車場に車を停めた。白のセダンから降りると、祥吾に肩を抱かれるようにして部屋に向かう。今回は三階の部屋を取ったようであった。
 エレベーターで降り、廊下を歩いてゆく。美華子は我ながら、おかしなものだと思った。既に別離を覚悟した男とこうしてホテルに来ている。しかも、自分はこの男に対してもう何の感情も抱いていないというのに、何故、ホテルに来たりするのだろう。