情欲の檻~私の中の赤い花~
化粧室から絨毯の敷き詰められた廊下を辿り、バーまで戻ってくる。入り口の自動ドアが開き、店内に脚を踏み入れた瞬間、最奥の窓際席が見えた。高いスツールに座っている祥吾は相変わらず絵を見ているように様になっている。後ろ姿でさえ、格好良い男は格好良いらしい。恐らく美人も同じ理屈だろう。
男女共に美男美女はいつの世でも羨ましいものである。
祥吾の長い脚が好きだ。それから、愁いを帯びたようなまなざしが、長い翳を落とす睫の向こうからこちらを見つめているとき。あの瞳に見つめられただけで、情けなくも美華子の心は震えてしまう。
あの長い脚に自分の脚を絡め、焔のように烈しく燃え上がって一つになる瞬間も好きだった。彼が自分の中に入ってくるときの感覚、苦しさがやがて堪らない快感に変わる瞬間も好き。
祥吾に関して?好き?は幾つでもあった。
―私はどうして、あんな男をここまで好きになってしまったの? 幾ら愛しても、けして愛されることはなく、私を一人の人間として価値あるものと見てはくれないような男に心奪われてしまったの。
涙がひと粒、頬をころがり落ちていった。
美華子は手のひらでいささか乱暴とも思えるほどぞんざいに涙を拭った。
今はまだ応えは出せなかった。幾ら他人に愚かと誹られようと、祥吾を本当に自分が愛しているのかどうか、別れたいのか、そうでないのか結論は出せない。
このまま関係を続けて遠からず棄てられることになったとしても、その瞬間まで彼の傍にいたいのか。それさえも判らないのだった。
「お待たせ」
突如として声をかけられ、流石に祥吾もすくみ上がったようだった。
「な、何だ。いきなり背後から声をかけられるから、何事かと愕いたじゃないか」
祥吾は明らかに不機嫌そうであった。いつもなら取り澄ました男がここまであからさまに動転しているのは、普段であればさぞ笑えたに違いない。しかし、今は笑う気力すら湧いてこなかった。
それに、美華子は確かに見たのだ。振り向く寸前、祥吾が愛用しているスマホをさっといつも持ち歩いているバッグに入れるのを。
何事にも煩い彼らしく、今のスマホは黒のS社から出ている最新型である。美華子が近づくまで、彼は明らかに誰かと話をしているうに見えた。現に今まで、スマホを片手に熱心に話し込んでいたのだ。
「あら、電話中だったのね」
さりげなく指摘すると、祥吾の整った顔が蒼褪めた。
「そうか? お前の勘違いだろう」
「でも、あなたがスマホを手にしているのを私、見たのよ」
単なる電話ならば、ここまで動揺して隠し立てする必要はないだろうのに、かえって不自然な態度を自分が取っているのが判らないのだろうか。
「おお、そういえば、そうだったな。ちょっと取引先から緊急のメールが入ったみたいで、部下から電話が来たんだ。まったく迷惑な話だよな。折角の美華子とのデートだっていうのに」
取って付けたような口調が哀しい。人間というものは、一度、取り繕った仮面が外れれば、後は放っておいても、本性が出てしまうものなのかもしれない。
「そういうわけで、今夜は悪いが、これでお開きにしよう」
美華子が無言なのをどう解釈したのか、祥吾が愛想笑いを浮かべた。
「そんな心細そうな顔するなって。この埋め合わせはまた必ずするからさ」
祥吾と共にガラスの箱状のエレベーターに乗り込み、地下の駐車場に行く。何と、そこには黄色い個人タクシーが待っていた。
「これは、どういうこと?」
別に責めるつもりはなかったのだけれど、胸に含むところのある祥吾には責められているように思えたのだろう。早口で言った。
「これから約束があるんだ」
いつもなら、ホテルで彼に抱かれた後は、彼が自宅の近くまで車で送ってくれるのが日課だったのだ。美華子は一人娘だ。両親は共に五十代後半。父は真面目な教員で、定年まで後わずかなところまで勤め上げ、母は結婚以来、ずっと家庭を守ってきた。
美華子はごくごく平凡な家庭に育ち、頭の固い昔気質の両親はまさか娘が三年もの間、男とこんな―結婚の約束もなしに身体を重ねる関係を続けているとは想像だにしていないはずだ。もし知れば、二人ともに発作を起こして倒れてしまうだろう。
だから、いつも十一時には帰宅するようにしていたし、そんなときは?飲み会?だと言い訳していた。父も母も現代のOLがどんなものかなんて、実態を知らないのは幸いであったといえよう。社内ではごまかしきれなかったようだが、少なくとも両親に限っていえば、祥吾との交際は欠片ほども気づかれていなかった。
父母の手前、自宅前までは無理だが、近いところまではいつも祥吾がマイカーで送ってくれるのに、今夜に限り送れないと言う。しかも駐車場には予めタクシーまで呼んでおく用意周到さには、いささか呆れた。
つまり、そこまでして祥吾は美華子を追い払いたいのだ。
「約束って? さっきまで、あなたはそんなこと全然言っていなかったのに」
愚かだとは判っていた。祥吾は明らかに美華子と今夜は別れたがっている。なのに、無理して傍にいたって、意味はない。むしろ、余計に疎ましがられるだけだろう。
祥吾が意味もなく、ネクタイを引っ張った。
「あ、ああ。だから、先刻の電話。営業の部下に急に逢わなきゃいけなくなってな。一つ、大口の話が決まりそうだったから、ここは慎重に慎重を期していこうと、これから戦略会議だ」
この人は知らないのだろうか。嘘をつくときには、彼は意味もなくネクタイを引っ張るという癖があることを。
三年という月日は、つまりそれだけの長さであったということでもある。祥吾は美華子という女の内面は少しも見ようとせず、ただ身体だけを飼い慣らし、どこを責め立てれば反応するかを知った。そして、美華子は祥吾について、彼本人が気づいていないような癖を知った。
以前、祥吾が?浮気?をしたことがある。一年くらい前、妹の友達とそういう関係にあったらしい。彼は自分について多くを語らなかったが、それでも、彼が暮らすマンションからほど近い自宅には大学二年の妹と両親が暮らしていると聞いたことがある。
あろうことか、祥吾は妹の親友に手を付けたのだ。自宅に帰っているときに、たまたま遊びに来ていたその娘が祥吾好みだったらしい。祥吾は妹の携帯からその娘の携帯電話の番号やメルアドを調べだし、ひそかに連絡を取った。
彼もまたこのとおりのイケメンだから、向こうの娘も印象は強かったようで、二人は妹に内緒でしばらく付き合っていた。ところが、ふとしたことから、妹がそのことを知り、大紛糾に陥った。また、その娘の親からも祥吾の両親の元に、お宅の息子さんとうちの娘がどうやら―と連絡が来たという。
結局、妹は?お兄ちゃんなんて、最低。女と見れば、誰にでも手を出すのね?と号泣し、妹には弱い祥吾はその娘とは別れることになった。しかし、その余波は妹とその娘の数年来の友情をも壊すことになった。
作品名:情欲の檻~私の中の赤い花~ 作家名:東 めぐみ