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情欲の檻~私の中の赤い花~

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「でも、考えてみれば、私たちが付き合って、もう三年にもなるのよ。その間、そういう噂が立たなかった方がむしろ幸運だったと思うべきじゃないかしら」
「そんなに簡単に済む問題じゃないだろうが! I社では社内恋愛は厳禁だぞ」
 語尾が震えている。三年間もこんな関係を続けながら、この期に及んで狼狽える男がどこか物哀しく滑稽に思える。
 美華子は笑った。
「そんなこと、あなたに今更言われなくても、私だって知ってるわ。これでも一応、祥吾さんよりは先輩なんだから」
 ちなみに祥吾は四年制大を卒業し、美華子より一年遅れて入社してきた。二十八歳の美華子より一つ若いのだ。
「よくそんなに冷静でいられるな」 
 祥吾は何かに急かされるように、ロックのウイスキーをひと息に煽った。
「私は別に、あなたのような野心家ではないもの」
「俺のどこか野心家だっていうんだ!」
「そんな喧嘩腰にならないで。これもあくまでも噂だから」
―営業部の木梨祥吾はどうやら、アメリカ支社への出向を上に願い出ているらしい。
 その噂が美華子に届いたのは、今年の春先であった。I社は世界の主要都市に支社を持っている。中でもアメリカのニューヨーク支社で数年間出向して本社に戻ってくれば、その後の栄転、引いては重役クラスのポストは約束されたも同然と囁かれていた。
 そのアメリカ支社に出向の人員は不定期で採用される。上から内示が出ることもあれば、正式に告知されて、公募制で選ばれることもあり、その人選は様々だが、今回は公募制ではなく、内々に上から達しがあるとの専らの噂だ。
 美華子は既に氷が溶けてしまったカクテルグラスを机に置いた。
「私は人事にいるのよ、祥吾さん。幾ら、あなたが私に隠そうとしていても、そういった噂は割と聞き逃さないものだわ」
「別に、俺は美華子に隠すつもりなんてないさ」
 どこか投げやりに言った彼は、音を立ててグラスを机に置いた。その拍子にまだわずかにとけ残った最後の氷が小さな音を立てた。
「別に良いのよ。ただ、私たちの噂だって、あなたの出向と同じで隠そうとしても隠せないものだったのかもしれないって、そのことが言いたかっただけ」
 短い期間ならともかく、三年もの長きに渡って付き合っていれば、人の眼に立たない方がむしろ不自然だ。
 彼が今、何を気にしているかは美華子には手に取るように判った。アメリカ支社に行くには、既婚者であることが条件なのだ。日本と違い、海外ではビジネス社交が盛んだ。特に顔つなぎを目的としたレセプションは頻繁に行われ、そういったパーティーには夫人同伴というのがマナーである。
 そのため、海外出向を希望する社員は既婚者であり、また夫人同伴で海外移住のできる者というのが条件であった。
 つまり、アメリカ支社に行くためには、結婚する必要がある。祥吾は結婚の必要に迫られているのだ。海外の支社に出向するのは、大概、九月が多い。つまり、あと三ヶ月もない。そして、出向者の名前が正式に内外に公表されるのは七月初旬と決まっている。
 今は六月半ばだから、まさに、祥吾は焦っているに相違なかった。にも拘わらず、美華子との間に結婚の話が一度も出なかったというのが何より彼の気持ちを物語っている。
 つまり、彼は美華子と結婚するつもりはないのだ。幾ら必要に迫られたとしても。
 動揺を隠し切れていない祥吾が見ていられず、美華子は立ち上がった。
「ちょっと化粧室に行ってくるわね」
 トイレと化粧室は一体になっている。トイレを済ませた後、美華子は大きな洗面台の前に立っていた。大きなドレッサー風の鏡に座り心地の良い椅子が置いてある。
 鏡の中には、どこか顔色の思わしくない疲れた表情の女がいた。二十八歳、若いともいえるし、若くないともいえる微妙な年齢。同期で入社した女子社員の三分の一以上は既に結婚退職している。中には結婚しても今までのように仕事を続けている同僚もいた。
 現に、二年遅れで入ってきた同い年の牧村爽菜(さな)は三年前に結婚、その二年後に出産した。一年の育休が終わり、今年の春から職場復帰して、子どもは保育園に預けて独身時代と同じように精力的に仕事をこなしている。
 爽菜とは親友とも呼べるほど仲が良いので、彼女の奮闘ぶりは余計によく知っている。
―ここまで引っ張っておいて、結婚するつもりのない男とこのままずるずると関係を持っていくつもりなの?
 美華子は鏡の中の女に問いかける。いや、祥吾が仮にアメリカ支社の出向人員に選ばれれば、自分は早晩棄てられる。何しろ彼は美華子と結婚する意思はこれっぽっちもない。
 では、仮に彼が選ばれなかったら? それでも、まだ今の関係を続けるつもりなのか。もしアメリカに行かなくなったとしても、彼はやはり、美華子を生涯の伴侶として選ぶことはないだろう。自分はこんな卑劣で自分勝手な男の都合の良い女として弄ばれ続けて、それで終わりになる。
 祥吾は自分が思い描く理想の結婚相手に巡り会えば、あっさりと美華子を見限るに決まっている。そこまで判っていながら、自分はまだ、あんな男に未練を抱くのか。
 もう一度、鏡の向こうの女を見つめる。不美人というわけでもないが、かといって、美人というわけでもない。どこにでもいるような、大勢の人の中に紛れ込めば、とりたてて何の魅力もない顔立ち。
 何故、自分では駄目なのだろう。美華子は両手で顔を覆った。ここまで馬鹿にされている、軽んじられていると知りながら、美華子はまだ祥吾を愛していた。いや、愛というのとは少し違うかもしれない。
 独占欲とでも言えば良いのか。彼が自分を見つめるときの深い欲情に濡れたまなざしや、情熱的に求める指先を思い出した時、それらがすべて自分ではない別の女に向けられるのかと想像しただけで、身体がカッと熱くなるようだ。
 これが嫉妬という感情であることは理解できる。しかし、現実として祥吾は自分を真の意味で求めてはおらず、彼が必要とする美華子の役割は都合の良い女というだけ。
 求められたときにいそいそと身体を差し出し、彼の欲望処理をするための女。美華子が彼の人生において与えられた役割はただそれだけなのだ。ここまで判っていながら、何故、自分は祥吾に執着するのだろう。
 独占欲や執着もある意味では、愛情といえるのだろうか。判らない。
 美華子は首を振った。
 いいや、これは罰だ。今まで、祥吾にとって自分が単に都合の良いだけの女だと十分すぎるほど理解していながら、その現実から眼を背けていた罪。それに下された罰を今、こうして自分は受けている。
 美華子はすっかり化粧が取れた顔に軽く白粉をはたき、口紅を塗り直した。少しでも顔色が明るく見えるようにと、チークを入れる。
 男の心が離れていた―というより、心が最初から自分にはなかったと悟りながら、まだ空しい努力を重ねる自分がいじらしくもあり、愚かしくも思えた。
 百歩譲って考えても、彼が求めているのはこの身体だけであって、けして美華子本人を必要としているわけではないのだ。