情欲の檻~私の中の赤い花~
考えてみれば、セックスが終わった後、美華子は祥吾の腕に抱かれて眠ったことは一度たりともない。初回から祥吾の愛撫は巧みで、美華子は処女同然でありながらもすぐに彼の愛撫に応え始め、切ない声を上げ続けた。
大学時代の彼は、彼自身も初めてだったと打ち明けたように、けして慣れてもいなかった。それに比べて、祥吾は女の身体を熟知しているようで、美華子は祥吾に抱かれて、初めて真の意味での絶頂を味わったのである。以前の亡くなった恋人とは、本当にたどたどしく不器用に身体を重ねただけにすぎなかっのだと、祥吾に抱かれてからは知った。
今も祥吾はクールな表情で煙草の煙を吐き出している。いつもの見慣れた光景ではあるが、どうしてもこんな場面に遭遇する度に、惨めな気持ちになってしまうのは否定できなかった。
―お前の身体にしか俺は用がない。
そう告げられているようで、本当は自分が哀れでならなかった。しかし、その想いを敢えて真正面から見つめようとしないのは、そんな傲岸な彼を大好きだという気持ちの方が惨めさに勝ったからに他ならない。
そういえば、と、美奈子は一人、ゆったりとソファに腰を下ろしている祥吾を見て思い出す。
学生時代の彼と寝たのはたったの二度きり、最後は夏休みに入る少し前、彼が生命を落とす一ヶ月前だった。狭い風呂の中でも何度か愛し合った後、二人は彼の布団で朝まで眠った。
少し汗と整髪料が混じって滲み込んだ布団は、彼の匂いそのものがした。彼は美華子の肩に手を回し、ずっと天井を眺めていた。
―美華、俺たち、大学を出たら、結婚しないか?
唐突に言われたときは愕いたものだ。確かに、彼には責任感の強いところがあった。戸惑う美華子に彼は少しはにかみながら言った。
―古いかもしれないけどさ、俺、美華子はバージンに違いない思ってたから、結婚するつもりで、最初からこういう関係になったんだ。
夏が終わったら、また学校で逢おうと笑顔で愛用のバイクにまたがり去っていった彼は、そのまま帰らない人となった。
祥吾とは三年も付き合い、一ヶ月に数回は身体の関係を持っているに拘わらず、まだ?結婚?どころか、それをほのめかす言葉も出たことはない。恐らく、学生時代の彼であれば、とっくに結婚していただろう。もしかしたら、もう子どもの一人や二人くらいはいたかもしれない。
福山雅治に似た端正な風貌の祥吾は何をしていても絵になる男だ。今も長い足を優雅に組み、煙草をくゆらせている姿は月9のドラマのワンシーンを見ているかのよう。
大好きな彼と狂おしいようなひとときをホテルで過ごしながら、何故、自分は昔の彼のことばかり考えているのだろうか。
美華子は想いを振り切るかのように首を振り、祥吾から自らの身体を隠すように背を向けて自分も服を着始める。だが、わざわざ背を向けることはないのだ。セックスが終われば、彼はすべての関心を美華子から失い、こちらを見ることなどないのだから。
部屋を出た二人はそのまま最上階のバーへ向かう。これもいつしか暗黙の約束のようになっていることだ。ここは、いわゆる女と男がヤることだけが目的のホテルとは違う。何事もスタイルを重んじる祥吾は、そんな場所は好まない。従って、二人が関係を持つのも、こういった、いかにも洗練されてほどよくオシャレなシティーホテルだったりする。
もちろん、自分たちのようにラブホテルとして利用するカップルも少なくはないが、一般のビジネスホテルとしてビジネスマンや観光客も多いのが特色だ。
窓際には細長い机と足の長いスツールが並んでいる。後はカウンター席、それにボックス席が幾つか、広い店内にゆったりとした配置で置かれていた。平日の夜とあってか、客は店内のそこここにちらほらと見かける程度だ。祥吾と美華子は真ん中辺りのスツールに並んで腰掛けた。
祥吾ほどではないが、これも黒服で美男の若いウエイターが注文を取りにくる。祥吾はウイスキーのロック、美華子はカンパリソーダを注文し、美男のウエイターは静かに去っていった。
「今日はやけに無口なんだな」
やがて運ばれてきたウイスキーを飲みながら、祥吾が言うともなしに呟く。
店内は深い海の底を思わせる内装で、照明を極限まで落としたせいか、絨毯も壁も深いブルーで統一した様は、本当に深海の底で漂っている魚になったような気分だ。
美華子はそれには応えず、大きく切りとられた窓から一望できる夜景を眺めていた。遠くで煌めくのは海、更にその手前でゆっくりと回転している光の風車のように見えるのは遊園地の巨大観覧車。
更にその手前にまばゆく煌めくのは街の夜景であり、その街の中央を貫くように伸びている光の筋は高速道路だろう。
あの光の道をバイクで走り去り、彼はいなくなった。あの道はもしかしたら、天へと伸びる天国への道だったのかもしれない。
何故だかカンパリソーダを飲む気にもなれなくて、美華子は細身のシルエットのグラスを手に持ち、軽く振った。カラカラと氷が触れ合う涼やかな音が逆に店内の静けさを強調する。
「おい、何か言ったら、どうなんだ」
祥吾の少し苛立ったような声が美華子を現実に引き戻す。
「安藤さんのこと」
え、と、祥吾が彼らしからぬ間の抜けた声を発した。唐突に話をふられて、不意打ちを喰らったようだ。
「夕方、喫茶店で話したでしょう。安藤先輩に声をかけられた話」
「ああ、そう言えば、そんな話をしてたな」
祥吾の整った面には、露骨なまでに不快感が表れている。取るに足りない上司の話をこんなときに持ち出されたのを不愉快だと思う気持ちを隠そうともしない。
もしかしたら、自分は祥吾という男をちゃんと見ていなかったのかもしれない。この時、改めて美華子は思った。いや、というより、見えていたものを敢えて見ようとしていなかったと言い換えるべきか。
「あの時、安藤さんがね」
言いかけた美華子を祥吾が断固とした声で遮った。
「今、何でそんなつまらない話を持ち出す? 折角、二人きりの時間を過ごしてるんだ。もう少しは愉しい話をしたら、どうなんだ」
本当に気の利かない女だな。
よくよく注意していなければ聞き逃しそうに低い声ではあったけれど、美華子の耳はしっかりと捕らえていた。
「私たちにとっては大切な話よ」
?私たち?という部分をわざと強調してみると、案の定、祥吾の眉が跳ね上がった。だが、彼が露骨すぎる反応を返してきたのが、?私たち?という言葉遣いに対してなのか、安浦女史が自分たちのことを話題にしたらしいのが原因なのかは判らない。
「何なんだ?」
祥吾という男は誰にでも愛想が良い。つまり、とても体面を気にする男でもあるのだ。自分が他人からどのように見られているかということに、非常に拘るタイプなのである。
「私たちが付き合ってることが社内で噂になってるらしいわ」
「安浦さんがお前にそう言ったのか?」
「ええ」
美華子は頷いてから、初めて祥吾を真っすぐ見据えた。明らかに、福山雅治似の端正な風貌に狼狽の色が浮かんでいる。
「馬鹿な。俺たちは十分用心していたはずだ。なのに、何で」
ショックで言葉がないらしく、絶句している。美華子は肩を竦めた。
作品名:情欲の檻~私の中の赤い花~ 作家名:東 めぐみ