情欲の檻~私の中の赤い花~
―家内も病気でもう二十年も前に亡くなりましてね。一人娘は生まれつき重度の障害があって、二十歳にもならない中に先立ちました。
だから、マスターに言わせれば、好きなように生きられるということらしい。
―定年まで会社勤めをするのも何だか、味気なく思えてね。十年早く退職して、それまでに貯めた金と退職金を使って、この店を開いたんですよ。別に儲けようなんて気はないから、好きなときに店を開けて、買い付けに行くときは予告なしに店を閉めて、ブラジルとかアフリカとか、色んな国を回ってる。昔の同僚に言わせれば、お気楽な隠居道楽だなってことらしいですよ。
と、静かに笑っていた。
美華子はこの店の雰囲気が好きだ。今、外では現実に雨が降っているが、例えていうなら、この店には雨の匂いがする。もしくは、骨董品店独特のゆかしいような、懐かしいような匂いとでもいうのか。嗅ぐと少し胸の奥が切なくなるけれど、同時に懐かしさとか安心とかを感じられるような。
この店に来てマスターの淹れたコーヒーを飲むと、ざわめいていた心が落ち着くような気がする。
今日もいつものように、ひと口ずつコクのある香りと味を堪能していたのだが、静かな時間は突如として中断された。
「―出よう」
祥吾は既に立ち上がっていた。美華子は慌てて言った。
「でも、まだ―」
「たまには良いだろう。行くぞ」
ふいに手首を掴んできた祥吾の手は愕くほど熱かった。彼に半ば引きずられるようにして席を立つ間際、美華子は彼の呑んでいた白いカップにはまだ殆どコーヒーが残っていることに気づいたのだった。
Memories?
白いリネンの上で美華子は思いきり身体を仰け反らせている。祥吾は両手を後ろについて脚を投げ出した体勢でベッドに座っている。今、美華子は祥吾の上に大きく脚を開いた格好でまたがっていた。
もちろん、二人は奥深い部分でしっかりと繋がり合っている。
「あぁっ、あ、ぁ」
祥吾は上に跨った美華子の反応をいちいち確かめるように上目遣いに見ながら、腰を動かす。
「お前の身体は本当に嫌らしくなったな」
三年前、祥吾に初めて抱かれた時、美華子は殆ど男性経験がなかった。もちろんバージンというわけではなかったけれど、短大時代に付き合った恋人と二度ほど経験しただけだ。
男性経験のない美華子にも、祥吾が女の扱いに慣れているのは薄々判った。更に、この三年で美華子は数え切れないほど彼に抱かれ、彼は美華子自身よりも彼女の身体―例えば、どの部分が敏感で、どのように責め立てられれば感じるかを知り尽くしている。
その点は用心深い祥吾はセックスのときはいつもコンドームをつけているが、時には何もしないで奔放に交わるときもあった。そんなときは大抵、美華子の生理が近いだとか、妊娠の可能性がないときに限られてはいた。
それでも、この三年で妊娠しなかったのは殆ど奇蹟だというほど、美華子は祥吾と身体を重ねた。
今日の祥吾はいつもにも増して烈しく美華子を求めた。ホテルに入るなり、いきなりベッドに押し倒され、殆どレイプも同然に身体を奪われた。それから既に二時間、美華子は何度も達している。にも拘わらず、祥吾はまだ飽きることなく美華子を組み敷いた。
その荒々しい抱き方は欲望を満たすため、いや、欲望すら感じさせない、まるで彼の中で荒れ狂う激情や苛立ちを美華子の身体にぶつけるような感じだ。正直、あまり愛情のこもった行為とはいえなかった。
美華子は愛情が伴っていれば、多少の荒々しい行為も許せるとは思っている。しかし、ただレイプするように身体だけを幾度も奪われるのは、やはり女としては嬉しいものではなかった。
セックスに心を求めるのは女の我が儘だ。いつか男性誌の?オトコの本音討論会?なる実にくだらない特集で誰かの発言として取り上げられていた科白がふと頭をよぎる。
この日の行為は何故か、美華子にとってはもどかしいままに終わった。二時間余りで三度も絶頂を味わったのだから、身体的には満ち足りているといえるのかもしれないが、その割には何か燃え尽きていないような、くすぶっているような感覚が残った。
祥吾の方は一連の行為が終わった後は、シャワーを浴びて、いつもと変わらない様子に戻っている。彼の後で美華子がシャワーを使って浴室から出てきた時、彼は既に背広をきちんと着込み、ソファに座って煙草をくゆらせていた。
美華子はまだバスタオルを身体に巻き付けたままだというのに、彼のその落ち着きぶりはどうだろう! こんな時、美華子はいつも普段は優しい彼が恐らくは隠し持っているのであろう冷酷さを感じた。
あれほど一方的に美華子を求めておきながら、事が終われば女など無視して、さっさとシャワーを浴び服を着込む。それは毎度のことだったから流石に慣れてはいたが、やはり面白いものではない。
まるで自分が無視されているような、置いてきぼりを喰らわされたような気になってしまう。彼との関係を持ち始めたばかりの頃は、まだ全裸の美華子を残して、さっさと身繕いを済ませた彼を見ると、自分が身体だけを提供する売春婦にでもなった気分で、惨めになったものだった。
学生時代の恋人とは彼の下宿で結ばれたけれど、そんなことはなかった。小さいながらも彼の部屋にも浴室はあったが、最初のときは、彼はシャワーを浴びようともしなかったし、二度目のときは二人で狭い風呂に入って、そこでも何度かセックスした。
彼は祥吾のようにイケメンでも洗練されてはもいなかったが、身体を重ねるときも美華子を労ってくれていたように思う。祥吾のようにただ一方的に抱きたいから抱くというのではなく、互いの気持ちを尊重し合えるセックスであり、彼のそんな態度はそのまま二人の普段の関係でもあったように思う。
このボーイフレンドとはしかしながら、付き合って半年で終わりになった。嫌いになって別れたのではない。大学の夏休み、彼は母方の祖母の家がある海辺の町に帰省した。彼は幼い頃、両親が離婚し、母親に育てられのだ。
そして、その夏、彼は海に行ったまま永遠に戻らなかった。夏休みに彼は家の近くで監視員のバイトをすることになった。小さな海だが、風光明媚な海水浴浴場として知られ、夏場は大勢で賑わう。その安全監視員として夏休みだけバイトしている間に、事故は起きた。
小学二年の男の子が沖まで泳いでいって溺れそうになったのを彼が助けにいき、彼は高波に呑まれて溺死した。彼が助けた男の子は無事、別の監視員に保護されて助かった。
美華子は今でも思うのだった。もし、彼が生きていたら、自分が祥吾と付き合うこともなかったに違いない。もちろん祥吾のことは大好きだし、別れるなんて考えたこともない。でも、あのときの彼が今も元気でいたら、祥吾と社則を破ってまで、こうして付き合うこともなかったとは思う。
それをいえば、初めて祥吾にホテルに連れられていったのは、付き合い始めて三ヶ月くらい経ったときのことだった。その時、事を終えた彼がいきなり浴室に入っていたのを見たときは、しんと心が冷えていった。
セックスが終われば用はないと言わんばかりに、浴室に入っていく彼はついに振り向くことも美華子を見つめることもなかった。
作品名:情欲の檻~私の中の赤い花~ 作家名:東 めぐみ