情欲の檻~私の中の赤い花~
最初、これまでとまったく違う一面を見せた彼に、美華子は大いに戸惑った。が、惚れた弱みとでも言うべきか、彼が自分にだけ素顔を見せるのは、自分が彼にとって他ならぬ特別な存在、心許せるからだと良い方に解釈するようにした。
幾ら美華子の前では傲岸にふるまい、多少の我が儘を言ったとしても、美華子の祥吾への気持ちが変わることはなかった。
かといって、自分が祥吾を好きなだけ彼もまた自分を好きなのかと問われれば、正直自信はない。何と言っても福山雅治似の男の傍にいて、似合いだと思われるようなタイプではないのは判っている。
福山雅治なら、やはり彼が数年前に結婚するという噂の流れたこともある小西真奈美ばりのスレンダーで知的な美人でなくてはいけないだろうが、生憎と美華子はお笑い芸人の女の子にでもいそうな外見である。要するに存在感がないわけでもないし、ブスというわけでもないが、けして主役級のヒロインにはなり切れない女。
―もしかしたら、彼は私ほどには私を愛してくれてはいなかったのかもしれない。ただ、彼に本音を言えずに、本気でぶつかることもできない中に、彼は私の前から去っていった。卑怯な私が決断を下せずにいるうちにね。そのことだけは今も後悔してる。たとえ彼から拒絶されようと、自分の本当の気持ち、あなたがいなければ私は駄目って、はっきり伝えるべきじゃなかったのかなって。
先刻の安浦沙織の科白が、ふと耳奥でリフレインした。
本当に彼は私には勿体ないような良い男だ。その事実に誇らしさや歓びよりも、むしろ軽い喪失感を憶えたことに、美華子は我ながらショックを受けていた。
私の彼は自他ともに認める、私にはふさわしからぬイケメン。
そんな自嘲めいたことを考えている中に、先に祥吾が気づいたのか、こちらを見て軽く片手を上げた。
「よう」
もしかしたら、祥吾もまた安浦沙織と同種のタイプかもしれない、もっとも、少なくとも祥吾の方は見せかけだけだけれど。小さな丸ガラステーブルを挟んで向かいに座りながら、美華子はぼんやりと思う。
整いすぎるほど整った顔立ちには似合わない、砕けた性格や態度。誰でも変わることのない愛想の良さや優しさは、若い女の子なら、皆、彼が自分に気があるのかと妙な期待を抱いてしまいそうになるかもしれない。
「遅かったな。メールしてからでも、かれこれ三〇分近くは経つぞ?」
「ちょっと会社を出がけにね」
肩を竦めて見せると、祥吾が形の良い眉をひそめた。
「どうした、何かあったのか? 顔色が悪いようだけど」
「安浦先輩に呼び止められて」
「安浦? ああ、あの商品企画部の部長か」
祥吾は頷いた。
「何か言われたのか、あのお局に」
祥吾のような現代的な割り切った考えを持つ男でも、沙織に対して?お局?なんて言葉を使うのだ。美華子は意外に思った。
「いやあね。お局なんて言い方は止めてよ。誰だって、好んで歳を取るわけじゃないのよ。それに、安浦さんは間違っても、お局なんて柄じゃないでしょ。姉御肌の面倒見の良い人だって社内でも有名だもの。後輩いびりとは無縁の人に、お局だなんて失礼だわ」
祥吾は眼を丸くした。
「意外だな。美華子は安浦部長のこと、前はあんまり良く言ってなかっただろ。何を考えてるか判らないし、底が知れなくて苦手だとか何とか」
美華子は小さく咳払いした。
「別に、ただ少し気後れするってだけで、嫌いとか、そういうんじゃないの。祥吾さんも人を立場とかだけで決めつけるのは止めた方が良いよ」
祥吾の眉がまた心もち跳ね上がる。
「何だか、引っかかるな、その言い方。俺は別に安浦部長を決めつけた憶えはないけど」
そこに、店のマスターが現れた。
「いらっしゃい。何にしますか?」
六十そこそこの銀髪のマスターは、いつも黒のシャツにグレーのズボンを身につけている。若かりし頃はかなりのイケメンであったろう面影が今も十分に残っている。
「俺はマンデリン」
「私はキリマンジャロを」
二人が口々に言うと、マスターは銀の丸盆から二つの水の入ったグラスを置き、にっこりと笑って去っていった。
祥吾はそれ以上、話を続ける気を失ったらしく、再び視線を窓の向こうへと投げた。無意識の仕種なのか、視線は依然として外に向けたままで、手だけはテーブルの上をさまよい、何かを探しているような癇性な動きを繰り返している。
それで、美華子は彼が煙草を探しているのだと判った。彼はかなりのヘビースモーカーだ。三年前に付き合い始めた頃より、煙草も酒も強くなったと思う。営業は何より忍耐と辛抱が必要な部署だ。祥吾はこれでなかなか気性の烈しいというか、はっきりとしたところがあるから、顧客に対して常に笑顔を振りまかなければならないのは相当の我慢を強いられるのかもしれない。
そのせいばかりというわけでもないだろうが、祥吾は酒も煙草も量が増えて強くなった。しかし、この店は原則、煙草は吸えない。煙草の味や香りはコーヒー本来の深みのあるうま味を麻痺させるとして、マスターが禁煙ということにしているのだ。
ここのマスターも穏やかそうで人当たりも良いが、なかなか自らの信念に関しては一徹というか頑固である。
美華子も特に話すこともないので、黙って視線は自然とテーブルの上の祥吾の手の動きに向いていた。
祥吾はしばらく手をさまよわせていたが、やがて、ここに灰皿はないのだと思い至ったらしい。軽く舌打ちして、ズボンのポケットから取り出そうとしていた煙草を再びしまいこんだ。
外はどうやら雨が降り出したのか、空はいっそうグレーに塗り込められ、舗道を行き交う人は傘を差して足早に歩いている。二人が座る窓際に填ったガラスに、小さな無数の水滴が付いていた。水滴は次々とガラスに付着しては、下へとしたたり落ちている。
美華子はぼんやりと、流れ落ちる水滴を眺めていた。そこにマスターのやわからな声音が静寂を破る。
「お待たせしました」
淹れたてのコーヒーの何ともいえない匂いが鼻腔をくすぐる。美華子は元々、コーヒーは苦手で、紅茶党だったが、祥吾と付き合うようになってからというもの、コーヒー党になった。
とはいえ、苦みのあるのはいまだに苦手で、毎度ながら、ミルクと砂糖はたっぷり足して呑む。そんな美華子を祥吾は
―折角のコーヒーの味が死ぬ。邪道だ。
と、いつも良い顔をしない。もちろん、彼はミルクも砂糖もなしで、すべてそのまま呑むのだ。
いつだったか、そのことで軽い口論になった二人のところに来て、マスターがとりなすように言った。
―コーヒーなんてものは、嗜好品ですから、呑みたい人が呑みたいように呑めば良いんですよ。
美華子はそのひとことで救われたが、祥吾ははっきりと不快感を露わにしていた。店を出た後で、
―何だか俺が狭量な男だと言われているようで、良い感じがしなかった。客に対する物言いじゃないな。
と、不機嫌に零していたものだ。
しかし、それからというもの、彼がコーヒーの飲み方について美華子に文句を言うことはなくなった。
美華子はすっかり口数の少なくなった祥吾には頓着せずに、いつものようにゆっくりとコーヒーを味わった。?ドルフィン?のマスターは本人いわく独身だという。
作品名:情欲の檻~私の中の赤い花~ 作家名:東 めぐみ