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情欲の檻~私の中の赤い花~

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「あの―、何が、私のどこがいけないんでしょう? 教えて頂ければ、これからは安浦部長のお気に障るようなことは一切ないように気を付けます」
 努めて言葉を選びながら応えると、沙織は淡く微笑した。
「やあね。その言い様は、まるで怖いお局が若い子を苛めているようじゃない」
 予期せぬ言葉に、美華子は眼を見開く。その間に、二人を乗せたエレベーターは一階に到着した。扉が開き、先に沙織が降りた。続いて出てきた美華子を沙織が真っすぐに見つめる。
「営業の木梨君ね」
 祥吾の名前を出され、美華子はハッと息を呑む。沙織の瞳にどこか憐憫にも似た感情が宿っているように見えるのは思い過ごしだと良いのだが。
「あなたたち、知り合いなのよね?」
 そこで沙織はふっと自嘲めいた笑いを浮かべた。
「ああ、止めた、止めた。こんな持って回った言い方、私のキャラじゃないもんね。木梨君と一ノ瀬さんが付き合ってるっていう噂がここのところ、社内で流れてるらしいわ。気を付けた方が良いと言ったのは、その噂のことなの」
「私と営業の木梨さんが」
 まさに、その噂は真実に他ならないのだが、当人たちは秘密にしていると思い込んでいただけに、第三者から既にそのことが噂になっていると聞かされたのは衝撃だった。
 沙織は溜息をついた。
「今時ね、社内恋愛がご法度だなんて、時代錯誤もはなはだしいけれど、それがウチの社長の方針なんだから、仕方ないわよね。女性を積極的に管理職に引き上げる一方で、そんな社則があるのは、どう考えても不自然だもの。私はね、一ノ瀬さん、普段のあなたの陰ひなたない働きぶりに好感を持ってるの。いずれ商品企画部の方に来て貰っても良いと思ってるくらい。だから、こんなつまらない噂であなたには駄目になって欲しくないの」
 沙織は普段は華やかなメークが映える美しい顔に、淋しげな微笑を浮かべた。
「私が離婚したのなんて、もう三十年も前の昔だけど。当時、私は営業にいてね。そこの同僚と付き合ってたのよ。むろん、まだ旦那もいたわ。もちろん、旦那と別れたのはそれだけではないけれど、やはり、不倫してたっていうのも大きな原因だったの。私たちの恋は結局、長くは続かなかった。社内恋愛は禁止だっていう社則に触れたんだから、当然よね。その時、私は離婚調停中で、相手の人はこれから女一人で子どもを育てていく私のことを考えて、自分が身を退いてくれたの。ここを私が止めるのは大変だと思ったんでしょうね。その人にも奥さんや子どもがいたのに」
 いきなり私的な過去を持ち出され、美華子は相槌を打とうにも打てず、困惑した。
 沙織はふっと笑う。
「おばさんの昔話なんて聞かされて、つまらないでしょ」
「いえ、そんなことは」
 心にもないことを言うと、沙織はまた笑った。
「社内恋愛禁止の会社にいる以上、禁を破れば、罰せられる。もし、あなたがそれでも恋を貫きたい、大切なものだと思うのなら、早めに結論を出すことね」
 沙織の真摯な視線が美華子を射貫く。
「会社を止めて木梨君とさっさと結婚するか、それとも、恋よりキャリアを優先するのなら、木梨君とはきれいに別れるべきだわ。愚図愚図して結論を先伸ばしにしていると、私のように大切なものを失うことにもなりかねないのよ」
「安浦さんは、仕事よりも恋を選びたかった?」
 口にしてしまってから、ハッとした。あまりにも立ち入りすぎる質問だ。
 しかし、沙織はうっすらと笑んだまま応えた。
「もちろん。まあ、大人の女―しかも、子どもがいる家庭持ちにはいささか感心できないことだけど、それでも、私は彼を本気で愛していたの。息子には口が裂けても言えないけれど、もしかしたら、我が子さえ棄ててでも貫きたいと思った関係かもしれないわね。でも、彼はそんな私の思惑をよそに、身を退いた。もしかしたら、彼は私ほどには私を愛してくれてはいなかったのかもしれない。ただ、彼に本音を言えずに、本気でぶつかることもできない中に、彼は私の前から去っていった。卑怯な私が決断を下せずにいるうちにね。そのことだけは今も後悔してる。たとえ彼から拒絶されようと、自分の本当の気持ち、あなたがいなければ私は駄目って、はっきり伝えるべきじゃなかったのかなって」
「―」
 黙り込んだ美華子に、沙織は優しい笑顔を見せた。
「あなた、ウチの息子と殆ど歳が変わらないしね。だからかな、余計なお節介しちゃった。でも、今、私が話したことをよく考えてみて。二つのものを同時に手には入られない。後悔することになる前に決断を下すべきよ」
 じゃと、沙織は到底五十が近いとは思えないきびきびとした身のこなしで、先に歩いていく。
「お疲れ様でした」
 その背に向かって声をかけてから、美華子もまた会社を出た。改めて背後を振り返ると、十五階建ての近代的なビルが偉容を誇るかのように聳え立っている。
 I社は数年前に新社屋が完成したばかりだ。今時、社内恋愛は禁止だなんて時代遅れな社則がまかり通っている割に、外観は地方都市にしては珍しいほどオシャレで機能的だ。薄曇りの梅雨空に、グレーの高層ビルがどこか威圧的に自分を見下ろしているような気がして、美華子は小さく首を振った。
 会社を出ると、すぐに大通りがある。横断歩道を渡って少し舗道を歩いた先に、?ドルフィン?はあった。
 入り口の曇りガラスの扉を開けると、チリリと愛らしい鈴の音が響き渡る。いつものように、祥吾は奥まった窓際の席に座っていた。?ドルフィン?はカウンター席とテーブル席が五つで一杯のこぢんまりとした店である。
 コーヒーには拘りのあるマスターが自ら現地に赴いて買い付けてきたコーヒー豆しか使わない。コーヒーの種類は愕くほどだが、メニューには何とコーヒーの名前しか並んでいない。しかも一杯が八百円といささか割高に設定されているため、よほどのコーヒー愛好家か通でなければ来ない店だ。
 そんな理由で、会社から近くても、I社の社員がここを利用することはまずない。だからこそ、美華子と祥吾はここを待ち合わせの場所に使っているのだった。
 美華子は声をかける前に、祥吾をまじまじと見つめた。彼は横を向いて、今にも雨が降り出しそうな舗道を見つめている。端正な横顔は俳優の福山雅治に似ているとよく言われるだけあり、なかなかのイケメンだ。社内でも祥吾の人気は断トツで、若い女子社員の中には彼を狙っている子は少なくない。
 しかし、美華子が祥吾に惹かれたのは、何も外見だけではない。彼の仕事熱心なところだとか、若い女の子だけでなく、島流しと呼ばれている資料室へ飛ばされた中年社員にも隔てなく優しいだとか、彼の内面の様々な部分に魅了されて止まなかったのだ。
 逢えば逢うどほどに、どんどん好きになっていく。もちろん、彼が自分をどう思っているのか。それは判らない。社内恋愛が禁止されている会社で三年もの間付き合ってきたのだから、嫌いではないだろう。
 しかし、付き合っている中に祥吾は次第に別の顔を見せるようになった。彼が誰に対しても見せる愛想の良い笑顔や優しさがほんの見せかけにすぎないものだと美華子は知った。本当の彼は俺様で、女は男に従うのが当然と考えているような節があった。