情欲の檻~私の中の赤い花~
序章〜砂漠にて〜
風が、吹く。唸りを上げて私の傍らを通り抜ける風が周囲の砂を巻き上げ、砂塵は私の前方―はるか彼方までをも無色の世界に染め上げる。
そう、何もない、ただ虚しさだけがひろがる白い闇の中、私は一人、ここまで歩き続けてきた。そっとしゃがみ込んで、粒子の細やかな砂を掌(たなごころ)に掬い上げてみる。指の間から、零れ落ちる砂。こんな風に私の記憶もすべて指の隙間から落ちて、なくなってしまえば良い。
いや、私は自分の存在そのものをこの果てしなく続く悠久の砂の海の底に埋めてしまいたいとすら思った。
緩慢な動作で視線を上に投じると、吸い込まれそうな蒼い空が視界一杯に映った。何の鳥か、白い翼をひろげて旋回する鳥は悠々と飛び、やがて空の蒼に吸い込まれるように見えなくなる。
消えてしまいたい。褐色の大地でも、蒼い涯(はて)のない空でも構いはしない。この身を地上から、あのひとのいるこの世から消し去ってくれるなら。
だが、人は多分、誰でも一生、一人でい続けなければならないのではないかと、もう一人の自分が私に囁きかけているのも事実だった。どれほど愛している恋人がいようと、親しい友人がいようと、所詮人間はとどのところ孤独なのだと。
生まれてくるときも一人、死に逝くときも一人。それが人間の本来あるべき姿なのだと言ったのは誰だっただろう。愚かにも私は、その当たり前すぎることを知らなかった。いや、もしかしたら、本当は知っていたのに、現実を知るのが怖くて、わざと知らないふりをしていたのかもしれない。彼―祥吾に対する気持ちが本当は愛情ではなかったのに、彼を愛しているのだと自分に無理に思い込ませてきたのと同じことだった。
それが、この体たらくだ。故国から遠く離れた異国の砂漠でたった一人、私は生と死の狭間をさまよっている。灼熱と熱風の支配する砂漠は、まさに私にとって死の象徴に思えた。だが、今の私には、死は安息をもたらしてくれるもののようでもある。
ここから一歩踏み出せば、後は悠久のただ砂だけの世界。そして、私が待ち望んだ永遠の魂の安らぎを得られる。
さあ、踏み出すのだ。私はサンダルを履いただけの素足を一歩前へと踏み出す。明らかに普通の土とは違う砂を踏みしめる感触とともに真昼の暑熱を含んだ砂の熱さが剥き出しの肌に伝えてくる。
ここから先は、永遠に戻ってはこられぬ死の世界なのだと。
だが、人は生きるのも死ぬのも所詮は一人。私は自分に言い聞かせながら、なおも歩を進めていく。どうして私はそんな当たり前すぎることを知ろうとしなかったのだろう。そして自分の気持ちをごまかし続けてきたのか。
あの日、私が彼の傍から永遠に去っていくまで、愚かにも知らないふりなどしていたのか。
MemoriesI
バッグの中でかすかに音が聞こえたような気がして、美華子(みかこ)は慌てて手にしたバッグを開けた。何ヶ月か前の二十代向け女性誌の付録についていたそのバッグは、なかなか重宝している。帆布でできていて、アイボリーを基調とした地に黒のリボンが控えめに幾つかついている。全体的にモノトーンのデザインで、大人可愛いところがOLの通勤にも向いている。
やはり、携帯が控えめな音を響かせていた。美華子はメタリックレッドの二つ折り携帯を取り出し、開く。?新着メール?の表示があり、更に開くと、祥吾からのメールが来ていた。
―今、ドルフィンにいる。お前もそろそろ出てこられる頃合いか? 祥吾
美華子はつい頬が緩みそうになるのを精一杯堪(こら)えた。と、数メートル離れた先にいた後輩の女子社員がつつーうと近寄ってくる。
「一ノ瀬先輩、何か良い知らせでもあったんですか〜?」
「別に。親からのメールよ。今日は飲み会もないんなら、さっさと帰ってきなさいよって」
「ホントにィ〜?」
後輩の辻村遥香は根は悪い子ではない。短大を卒業してから八年目の美華子よりは二歳若い。しかし、四大を出てから入社したので、キャリアとしては四年の違いがある。
美華子の勤務するI社は比較的名の知られた家電メーカーだ。美華子は地元の短大を出てから、ここI市の本社にずっと勤務している。所属は人事部である。遥香も同じく人事部の後輩である。
「何か怪しいですねぇ? 今のメールって、お家からじゃなくて、営業の木梨さんからじゃないんですかぁ」
この語尾を甘ったるく伸ばす喋り方は、遥香本人は気に入っているらしい。現実として、おやじと呼びたい管理職連中はこういうタイプの若い子を好むらしいが、美華子としては、ただ苛つくだけだ。
「そう? 変な勘ぐりは、はっきり言って迷惑なんだけど」
美華子は先輩と後輩の一線をつけるように、ピシリとした口調で言った。
「先輩、何もそんなに怒らなくても」
遥香が少し気圧されたように言った。
しかし、美華子は構わずに断じる。
「うちの会社の社則は、あなたも知ってるでしょう? 迂闊なことは言わないでね?」
美華子は言うだけ言い、携帯を放り込んだバッグを肩にかけた。
「それじゃあ、私はお先に」
「お疲れ様でしたぁ」
遥香独特の声に見送られると、余計に疲れが増すようだ。美華子は振り向きもせずに会社の女子用ロッカー室から出た。
ハイヒールの音を規則的に廊下に響かせ、エレベーターのボタンを押す。丁度上から降りてきているエレベーターは美華子の待つ五階で止まった。
誰も乗っていないことを期待したのだが、生憎と先客がいた。しかも、美華子の大の苦手な商品企画部長である。
「一ノ瀬さんも今、帰り?」
I社は女性の管理職が多いことでも知られている。この安浦沙織もその一人だ。三年前、総務から抜擢され、商品企画部のトップに立った辣腕の上司であった。既に四十代後半に達しているというが、若い頃に国際線のパイロットと結婚して一児を儲け、まもなく離婚。女手一つで息子を育て上げ、その息子は三年前に東大医学部をストレートで卒業して今は、研修医として働いているという。
既にアラ五〇だというのに、若々しい張りのある肌は白く、透明感がある。ボーイッシュなショートヘアは明るい褐色で、これは染めているのではあろうが、若草色の上品なパンツスーツがよく似合う様は三十代前半といって通りそうだ。
溌剌とした印象は外見だけではなく、性格も男っぽくて部下の面倒見は良いと評判の管理職である。
だが、正直、この上司が美華子は昔から苦手だ。今いちばん逢いたくない人に逢ってしまう自分の不運を正直呪っていた。
「あ、はい」
美華子は無難な笑顔を拵え、頷いた。
狭い箱の中に沙織と二人きりでも、何とも重たい沈黙が漂う。
ふと、美華子は沙織がじいっと自分を見つめているのに気づいた。嫌な感じの眼だと思う。まるで何かも、お前のことなんかお見通しだぞとでも言いたげなこの瞳が、実は美華子が沙織を苦手だと思う最大の要因なのだ。
何か言わなければと、美華子がまたしても当たり障りのない話題をふろうと口を開き掛けたその時、沙織が沈黙を破った。
「一ノ瀬さん、気を付けた方が良いわ」
え、と、美華子は我ながら、女子高生のような素っ頓狂な声を上げてしまったことを後悔した。
風が、吹く。唸りを上げて私の傍らを通り抜ける風が周囲の砂を巻き上げ、砂塵は私の前方―はるか彼方までをも無色の世界に染め上げる。
そう、何もない、ただ虚しさだけがひろがる白い闇の中、私は一人、ここまで歩き続けてきた。そっとしゃがみ込んで、粒子の細やかな砂を掌(たなごころ)に掬い上げてみる。指の間から、零れ落ちる砂。こんな風に私の記憶もすべて指の隙間から落ちて、なくなってしまえば良い。
いや、私は自分の存在そのものをこの果てしなく続く悠久の砂の海の底に埋めてしまいたいとすら思った。
緩慢な動作で視線を上に投じると、吸い込まれそうな蒼い空が視界一杯に映った。何の鳥か、白い翼をひろげて旋回する鳥は悠々と飛び、やがて空の蒼に吸い込まれるように見えなくなる。
消えてしまいたい。褐色の大地でも、蒼い涯(はて)のない空でも構いはしない。この身を地上から、あのひとのいるこの世から消し去ってくれるなら。
だが、人は多分、誰でも一生、一人でい続けなければならないのではないかと、もう一人の自分が私に囁きかけているのも事実だった。どれほど愛している恋人がいようと、親しい友人がいようと、所詮人間はとどのところ孤独なのだと。
生まれてくるときも一人、死に逝くときも一人。それが人間の本来あるべき姿なのだと言ったのは誰だっただろう。愚かにも私は、その当たり前すぎることを知らなかった。いや、もしかしたら、本当は知っていたのに、現実を知るのが怖くて、わざと知らないふりをしていたのかもしれない。彼―祥吾に対する気持ちが本当は愛情ではなかったのに、彼を愛しているのだと自分に無理に思い込ませてきたのと同じことだった。
それが、この体たらくだ。故国から遠く離れた異国の砂漠でたった一人、私は生と死の狭間をさまよっている。灼熱と熱風の支配する砂漠は、まさに私にとって死の象徴に思えた。だが、今の私には、死は安息をもたらしてくれるもののようでもある。
ここから一歩踏み出せば、後は悠久のただ砂だけの世界。そして、私が待ち望んだ永遠の魂の安らぎを得られる。
さあ、踏み出すのだ。私はサンダルを履いただけの素足を一歩前へと踏み出す。明らかに普通の土とは違う砂を踏みしめる感触とともに真昼の暑熱を含んだ砂の熱さが剥き出しの肌に伝えてくる。
ここから先は、永遠に戻ってはこられぬ死の世界なのだと。
だが、人は生きるのも死ぬのも所詮は一人。私は自分に言い聞かせながら、なおも歩を進めていく。どうして私はそんな当たり前すぎることを知ろうとしなかったのだろう。そして自分の気持ちをごまかし続けてきたのか。
あの日、私が彼の傍から永遠に去っていくまで、愚かにも知らないふりなどしていたのか。
MemoriesI
バッグの中でかすかに音が聞こえたような気がして、美華子(みかこ)は慌てて手にしたバッグを開けた。何ヶ月か前の二十代向け女性誌の付録についていたそのバッグは、なかなか重宝している。帆布でできていて、アイボリーを基調とした地に黒のリボンが控えめに幾つかついている。全体的にモノトーンのデザインで、大人可愛いところがOLの通勤にも向いている。
やはり、携帯が控えめな音を響かせていた。美華子はメタリックレッドの二つ折り携帯を取り出し、開く。?新着メール?の表示があり、更に開くと、祥吾からのメールが来ていた。
―今、ドルフィンにいる。お前もそろそろ出てこられる頃合いか? 祥吾
美華子はつい頬が緩みそうになるのを精一杯堪(こら)えた。と、数メートル離れた先にいた後輩の女子社員がつつーうと近寄ってくる。
「一ノ瀬先輩、何か良い知らせでもあったんですか〜?」
「別に。親からのメールよ。今日は飲み会もないんなら、さっさと帰ってきなさいよって」
「ホントにィ〜?」
後輩の辻村遥香は根は悪い子ではない。短大を卒業してから八年目の美華子よりは二歳若い。しかし、四大を出てから入社したので、キャリアとしては四年の違いがある。
美華子の勤務するI社は比較的名の知られた家電メーカーだ。美華子は地元の短大を出てから、ここI市の本社にずっと勤務している。所属は人事部である。遥香も同じく人事部の後輩である。
「何か怪しいですねぇ? 今のメールって、お家からじゃなくて、営業の木梨さんからじゃないんですかぁ」
この語尾を甘ったるく伸ばす喋り方は、遥香本人は気に入っているらしい。現実として、おやじと呼びたい管理職連中はこういうタイプの若い子を好むらしいが、美華子としては、ただ苛つくだけだ。
「そう? 変な勘ぐりは、はっきり言って迷惑なんだけど」
美華子は先輩と後輩の一線をつけるように、ピシリとした口調で言った。
「先輩、何もそんなに怒らなくても」
遥香が少し気圧されたように言った。
しかし、美華子は構わずに断じる。
「うちの会社の社則は、あなたも知ってるでしょう? 迂闊なことは言わないでね?」
美華子は言うだけ言い、携帯を放り込んだバッグを肩にかけた。
「それじゃあ、私はお先に」
「お疲れ様でしたぁ」
遥香独特の声に見送られると、余計に疲れが増すようだ。美華子は振り向きもせずに会社の女子用ロッカー室から出た。
ハイヒールの音を規則的に廊下に響かせ、エレベーターのボタンを押す。丁度上から降りてきているエレベーターは美華子の待つ五階で止まった。
誰も乗っていないことを期待したのだが、生憎と先客がいた。しかも、美華子の大の苦手な商品企画部長である。
「一ノ瀬さんも今、帰り?」
I社は女性の管理職が多いことでも知られている。この安浦沙織もその一人だ。三年前、総務から抜擢され、商品企画部のトップに立った辣腕の上司であった。既に四十代後半に達しているというが、若い頃に国際線のパイロットと結婚して一児を儲け、まもなく離婚。女手一つで息子を育て上げ、その息子は三年前に東大医学部をストレートで卒業して今は、研修医として働いているという。
既にアラ五〇だというのに、若々しい張りのある肌は白く、透明感がある。ボーイッシュなショートヘアは明るい褐色で、これは染めているのではあろうが、若草色の上品なパンツスーツがよく似合う様は三十代前半といって通りそうだ。
溌剌とした印象は外見だけではなく、性格も男っぽくて部下の面倒見は良いと評判の管理職である。
だが、正直、この上司が美華子は昔から苦手だ。今いちばん逢いたくない人に逢ってしまう自分の不運を正直呪っていた。
「あ、はい」
美華子は無難な笑顔を拵え、頷いた。
狭い箱の中に沙織と二人きりでも、何とも重たい沈黙が漂う。
ふと、美華子は沙織がじいっと自分を見つめているのに気づいた。嫌な感じの眼だと思う。まるで何かも、お前のことなんかお見通しだぞとでも言いたげなこの瞳が、実は美華子が沙織を苦手だと思う最大の要因なのだ。
何か言わなければと、美華子がまたしても当たり障りのない話題をふろうと口を開き掛けたその時、沙織が沈黙を破った。
「一ノ瀬さん、気を付けた方が良いわ」
え、と、美華子は我ながら、女子高生のような素っ頓狂な声を上げてしまったことを後悔した。
作品名:情欲の檻~私の中の赤い花~ 作家名:東 めぐみ