情欲の檻~私の中の赤い花~
個人的な話になると、いつもさりげなく交わされたし、デートといえば、会社帰りにこうしてホテルに寄り、その後、このラウンジで一時間から二時間程度呑んで帰るだけだった。
二人で食事すら取ったことも満足にないのだ。確かに、これでは付き合っているとはいえなかったかもしれない。などと今更、考える自分はやはり大馬鹿なのだろう。
その時。バーの自動ドアが音もなく開いた。新たな客の気配に、美華子は何気なく視線をそちらに向ける。流石に、それが誰であるかを認めた時、息を呑んだ。
辻村遥香が今、こちらに向かって大股で歩いてくる。
「辻村さん」
美華子の唇から吐息のように落ちた名前に、祥吾がギョッとした表情で振り向いた。
「き、君」
遥香はI社の人事課の後輩だ。四日前にロッカー室で祥吾との交際が社内で噂になっていると美華子に告げた人物でもある。
「あなたって、本当に最低。どこまで私を馬鹿にするつもり?」
それはまさに美華子も口にしたい科白ではあったが、彼女が言うより先に遥香が言った。
「いや、これには子細があって―」
祥吾は無様なほど狼狽えまくっている。
「私と婚約の話まで出てるっていうこの時期に、昔の女とデート? 良い度胸してるじゃないの」
遥香がAKBのメンバーに似ているという可愛らしい顔を歪めて喚いている。
美華子は黙って立ち上がった。
「じゃあ、私はこれで失礼するわ。昔の女はさっさと退散しますから、どうぞ、二人でお好きなように」
「まっ、待ってくれ。美華子。俺はお前を」
追いすがろうとした男の背広をむんずと遥香が掴む。
「それって、なに? まさか私と結婚した後も、この女とよろしくやるつもりだったわけ?」
図星だったのか、祥吾の顔が紙のように白くなった。あまりの無様さに見ていられない。美華子は傍らの丸テーブルにさりげなく置かれていた一輪指しに眼をやった。深紅の薔薇が一輪、ガラスの繊細な花瓶に投げ入れてある。
美華子はおもむろにその薔薇を引き抜き、一輪挿しを手にすると、まだ言い合っている二人に近づいた。更に祥吾の上で水のたっぷりと入っている花瓶を逆さにした。頭上から水をもろにかけられたものだから、堪ったものではない。
祥吾は女のような甲高い悲鳴を上げた。
「本当に情けない男ね。どうせ二股かけるプレイボーイを気取るなら、最後までうまくやりなさいよ」
それから嫉妬で愛らしい顔をどす黒く染めている遥香にも聞こえるように言ってやった。
「あなた、さっきは気持ち良くなってたのはずっと私だけだと言ってたけど、それは間違いね。少なくとも、あなたも同じように気持ち良くなってたでしょうが」
後は振り向きもせずに、つんと顎を反らし背筋を伸ばしてバーを出た。
終わった―。美華子の瞳から涙が溢れ、頬を濡らした。
辻村遥香が営業部長の辻村浩一の娘にして、更に専務取締役の辻村昭和の姪であることを美華子が知ったのは、その後まもなくであった。辻村という姓はありふれているわけではないが、特に珍しいわけでもない。
自分の後輩が管理職の身内だと知らなかったのは迂闊といえば迂闊であった。もっとも、そういった縁故的な関係は、社内では公表されないことが多く、美華子が知らなかったのも無理はない部分もある。
祥吾は遥香が営業部長の娘であることを知った上で近づき、言葉巧みに誘惑した。
そして、父である営業部長にも取り入り、二人の結婚を許して欲しいと申し出ていたのだ。営業部での祥吾の業績はけして悪くないし、社内での評判も上々だ。人当たりも良く、立場で人を区別しない公正な人物だとの評価も得ていた。もちろん、それはまったくの仮面にすぎず、素の彼は冷酷で計算高く狡賢い本性をまんまと隠していたわけである。
遥香と祥吾は営業部長から結婚の許可を取り付け、結納を交わす日まで決まっていたという話だった。また祥吾は遥香との結婚により、アメリカ支社への出向人員として選ばれることもほぼ内定したという。
が、時ここに至り、遥香が美華子と祥吾の密会現場を突き止めたことで、この縁談は破談になった。あの嫌がらせメールを送りつけてきたのも遥香だと、これは当人がやはり父である営業部長に白状した。美華子は祥吾に未練があり、父に泣いて縋ったという。
祥吾と美華子が定期的に利用していたホテルは何と探偵事務所に高額な報酬を支払って洗い出したという念の入れ様であった。木梨祥吾という男は、それだけの価値もない男だというのに。
美華子との密会の現場に現れたのは、ただ嫉妬と見せしめのためにすぎなかったと訴えたけれど、厳格な営業部長が結婚前から二股かけるような男を婿として認めるはずもない。
結局、祥吾は悪意ある噂―もっとも、その噂の大半は真実であったが―のために会社にいられなくなり、自ら退職した。
祥吾が退職する半月前、美華子は既にI社を辞めていたのは賢明な選択だったといえよう。遥香がのこのことホテルのバーに登場したのは金曜の夜で、美華子は週明けには人事部長に手書きの退職願を提出したのだ。
終章〜再びの砂漠にて〜
私は上着のポケットから一枚の写真を取り出した。L判サイズのそれには、祥吾と私が並んで映っている。彼は交際中も写真―今にして思えば、証拠になるようなもの―は何も残さなかったけれど、例外的に彼のスマホで撮ったものがあった。
いつだったのだろうか、まだ付き合い始めてまもなくだったと思う。彼との出逢いは営業部と人事部の合同会議がきっかけだった。福山雅治に似ていると社内でも有名なイケメンが声をかけてきてくれ、私は舞い上がったものだ。
写真の中の二人は笑っている。祥吾もそれなりに愉しそうな笑顔であった。もちろん、私の方は蕩けそうに幸せな顔をしている。それもそうだろう、この時は確かに彼を愛していると思っていたし、彼もまた自分を必要としてくれていると信じていたのだから。
写真の中の二十五歳の自分は三年先に彼との別離が待っているなんて、考えもしなかった。
私は小さな写真を細かく引き裂いてゆく。バラバラになった紙切れを手のひらに載せると、それは一瞬で風に巻き上げられ、宙へと散っていった。更にバッグから、一輪の花を取り出す。新聞紙を解き、現れたのは赤い花。
それはまるで、あの夜の、祥吾と別れた夜にラウンジで見た深紅の薔薇そのもののように見えた。私はしゃがみ込み、両手で砂を掘り、小さな窪みに薔薇の花を置いた。再び手で今度は砂をその上からかけると、赤い花はもうどこに隠れているのか見えなくなった。
溢れた出た涙は忽ちにして風にさらわれ、乾いた大気に散ってゆく。最後のわずかに残った涙がひと粒、乾いた白い砂の上に落ちる。
二度と咲かない花のために、最後の涙を砂に注ごう。私の想いとともに、この果てしなく続く熱砂の底深く赤い花を埋めるのだ。私が祥吾という男と過ごした三年間を象徴するのは、まさしく彼と永遠に別れた夜に見た花であった。花の葬送は、彼と過ごした青春の日々を悼み弔う意味もあった。
そして、やがて、想い出は悠久の時と砂に呑み込まれ、地中深くに消えてゆく。
その時、突如として大きな怒声が私の耳を打った。
「おーい、お前さん。死にたいのか?」
作品名:情欲の檻~私の中の赤い花~ 作家名:東 めぐみ