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情欲の檻~私の中の赤い花~

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 つと振り向くと、死と魔が支配するといわれる砂漠が始まる場所―辛うじてまばらな青草が見える位置に男が佇んでいる。
 ここは日本からはるかに離れた異国の小さな村。ここからが砂漠の始まりであることを示す看板が乾いた熱風に吹きさらされている。
―この場所より立ち入り禁止。
 と手書きで荒々しく記されている英文は半ば消えかかっている。
「ここからは死の砂漠だ。地元の人間でも滅多に一人では来ないのに、あんたみたいな外国人の若い娘がよく来たね」
 流ちょうな日本語に、私は眼を見開いた。
「日本の言葉が上手なのね」
 褒めると、男は少し照れたように笑う。もう二十歳は超しているだろうのに、初々しい笑顔は少年のようだ。
 小麦色の灯に灼けた肌や彫りの深い精悍な風貌は、彼が砂漠で雄々しく生き抜いてきた民の末裔であることを物語っている。
「僕は大学で日本語を専攻したんだ。お陰で、日本から来た観光客を相手に観光ガイドをして生計を立ててる。君も日本人だろ」
 大学を卒業したというからには、若く見えるが、二十代半ばは来ているのだろう。人慣れしていない木訥な様子は、彼の控えめで人懐こい人柄を何より表していた。
「でも、何で、一人でこんな場所まで来たんだ? 君もここからは魔の砂漠と恐れられている場所だと知ってるんだろう?」
 私は微笑んだ。
「それはもちろん知ってる。私がここに来たのは」
 私は言いかけ、次の言葉を飲み込んだ。
―死んでも良いと思ったから。
 だから、死の砂漠と地元の人でさえ迂闊に近づかない砂漠へ一人でやってきた。
「時々、いるんだよな。失恋したとかでセンチメンタルになって、ここに来る若い女とか、さ」
 青年は肩を軽く竦め、私を見た。その棗型の漆黒の瞳には?何もかもお見通しだぞ?と書いてある。
「生命、大事にしろよな。国には家族もいるんだろう? 男の一人や二人がどうしたっていうんだ。生きてりゃ、また良いこともある。ほら、俺のように良い男にも出逢えただろ」
 少し緊張が解けたのか、?僕?が?俺?になっている。真顔で言うのがおかしくて、私は思わず吹き出した。
 異国の若い男はまるで自分のことのように嬉しげに破顔する。
「そうそう、その調子。ほら、日本の諺で、笑う門には福が去る!」
 私は声を上げて笑った。
「それは違うわよ。笑う門には福来たる。去るっていうのは、いなくなることでしょ」
 こんなに笑ったのは久しぶりだ。彼は恨めしげに私を見ている。
「何もそんなに笑わなくても良いじゃないか」
 私はもう一度、眼を閉じる。
「なっ、もう気が済んだだろう。俺と一緒に村まで帰ろう。君の泊まっているホテルまで送ってってやるから」
 眼を開けて振り向くと、やはり先刻の男が私を待っている。私はうっすらと微笑み、その男の差しのべた手の方へと歩いていった。
 後にはただ、沈黙の砂漠が横たわるのみ―。
 彼はけして砂漠には入ってこない。私は自分の意思で死の砂漠から生の大地へと再び脚を踏み入れたのだ。私は少し躊躇った後、現地の人懐こい青年の差し出された手を握った。
 人は誰かを愛さずにはいられない。過去はすべてこの砂の奥深くに埋めて、未来を想おう。きっと頭上を覆うこの空は限りない未来へと続いているはず。自分の進む先に希望が持てなくなって、挫けそうになったら、この砂漠の上にひろがっていた蒼穹を思い出そう。
 そして、いつかまた出逢う運命の男を私の心の奥にひそやかに咲いた生命の花を燃やし尽くして愛してみよう。女としての盛りは過ぎてゆく。だが、心の花は一度枯れても、また咲かせることはできる。
 今日という日、私は祖国からはるか離れたこの砂漠の地に一本の花を埋めた。それは、まさにこの三年間、私の心に咲き続けた花だったのだ。

 後に、私は彼からこんな話を聞いた。この国の人々は砂漠を?死後の世界?と見なし、裏腹に砂漠以外の緑の大地を?生者の世界?だと見なすのだそうだ。
―だから、君はまさに、あの時、自分の脚であの世からからこの世に戻ってきたんだよ。一度死んだ人間は二度と死なない。
 後に私の夫となるモハマンド。それが彼と私の初めての出逢いだったけれど、その時、私もモハマンドも私たちが結婚するなんて考えてもいなかったし、ましてや、私にとって、この遠い砂漠の国が第二の祖国となり、私がここに永住することになるという未来を予測できるはずもなかった。
                (了)