凍てつく虚空
70年近く連れ添った自病ですよ、そう簡単に死んでしまうでしょうか、ってことです。
あれ、みなさん、おかしな顔されてますね。つまりこういう事ですよ。
黒川さんは生まれつき非常に重い心臓病を患っていた。つまり黒川さん自身その心臓病には細心の注意を払っていたはずです。
なのでむしろそういった病気だからこそ、本人や周りの人間は気を使うものではないでしょうか。そんななかで持病の心臓病で亡くなるのはおかしくないか。つまりそう言う事です」
「ふぅん。つまり理緒は『持病の発作で亡くなるのはおかしい』って言いたいって訳?
・・・・・・いろいろ言いたいことはあるけど、取り敢えず話は最後まで聞いたほうが良いんでしょう」
「そうですね。実は噂というものはこれだけじゃないんです。
直接の原因とされている心臓発作ですが、黒川さんはその薬を持っていました。ちょんと処方されていたんです。これは黒川さんの主治医の先生が証言しているようです」
「その主治医の先生が偽物ってことは無いの?」
「ちゃんとした警察の捜査によるものです。新聞にも書いてありましたよ?」
「ごめん。続けて」
「はい、つまり黒川さんはその処方薬を持っていたはずなんです。でも黒川さんが亡くなられて警察が家宅捜索に入って調べたとき、遺体が発見された場所からはその薬が遂に発見されなかったそうです」
「空になってたんじゃないの?」
「いえ、そうじゃないんです。『容器』ごと無くなっていたそうなんです。」
「ん?」
「例え容器の中の薬が切れたとしても、その容器自体は部屋に残っているはずなんです。いえもっと言えば、発作で亡くなる直前まで薬を探していたなら、
容器自体を握っているなり、あるいは周囲に落ちていなくてはならないはずです。でも実際には近くどころか、部屋を隅から隅まで探しても全く見当たらなかった。これはおかしい。何かあるのではないか。これが警察の当初の見解です」
「あれなんじゃない。警察の捜査とかでゴタゴタしたときにどっか行ったとか、それかあるいは黒川さんの遺族の方が片づけたとか、そう言う事は考えられないの」
「確かにその可能性もゼロではありません。警察もその可能性は考えたそうです。もしそれだけならさして問題にはならなかったようですが、ただもう一つ消えたものがあったんです。」
「薬の容器以外にって事? なにそれ」
「新作ですよ。黒川さんが書き続けていた新しい小説、その原稿用紙がその場から消えていたそうなんです」
「床に散らばったとかじゃなくって」
「えぇ。正真正銘姿を消したそうなんです。警察や遺族の方が必死で探してもやはり遂に見つからなかったらしいですよ。」
「本当に書いてたの。もしかしたら原稿用紙だけで何も書いてなかったのかもしれない。それを死ぬ直前に片づけたって事は考えられないの?」
「それもありえません。何故なら亡くなる直前、遺族の方がはっきりと見てらっしゃいます。その時黒川さん自身も『最後の作品も、もう9割方できあがっている。』って言ってたらしいんです。
つまり黒川さんが倒れる直前まで、最期となる作品が実在したんです」
言葉には出さなかったが、その新馬の情報には舌を巻いた。
自分も日頃からニュースや新聞には眼を通すほうである。しかも世界的に評価されている日本作家が亡くなったとあれば、眼にする機会も多かったはずだ。
しかしそんな私の持っている情報量の3倍はあろうかというくらい、新馬の脳内には蓄積されていたのだ。
しかもその蓄積されている情報のほとんどが、通常では入手できない情報が大半なのだ。
警察が何処をどれほど捜査しているのか、それに対してどんな見解があったのか。一般市民がそれを関知できることはまず無い。
この市民をいたずらに扇動しない、と言う名の名義の元に警察内部の情報がそう簡単に漏れるはずがない。
では、なぜこの新馬がそんな情報を知り得るのか。
新馬理緒
鷹梨と同じ時期に我が『トワイライト』に入団した彼女は24歳だ。
彼女がなぜ一般人が知ることのできないような情報を知っているのか。
答えは簡単だ。彼女の父親が警察官なのである。
しかも一端の警察官ではない。「警視」とか「警視正」と言われる立場の人間らしかった。
それはつまり、警察内部でもかなりの立場を有する人物、新馬はその娘だという。
彼女は家庭で、父親から事件や事故の情報を聞いていたのだった。
本来は守秘義務に抵触してしまうことがらなのであろうが、父親の立場が立場なだけに黙殺されているようだった。
さてm彼女の家についてはこれくらいにしよう。
彼女は演者としての女優と言うよりは、完全な黒子、つまりは裏方タイプだった。
舞台全体を通し、いつ、何処で、何をどうして、どのタイミングで切り替えるか、それは我々が想像する以上に苛酷である。
一つタイミングを間違えただけで舞台は滅茶苦茶になる。早すぎても遅すぎても駄目だ。
そんなシビアな裏方業務を、平気で4つ5つ受け持つことが出来るのは新馬理緒だけだった。
そして何より大変なのが、失敗は簡単に観客の眼にとまるのに、その成功と言うのはなかなか評価されないということだった。
どんなにベストタイミングで操作を行っても、どんなに効率的に動こうとも観客の眼には止まらない。それが裏方の一番の難所だ。
何故新馬が此処まで裏方の仕事ができるのか。
それは裏方の仕事を多くこなしてきたからだ。
では何故、裏方の仕事を多くこなしてきたのか。
決っして演技が出来ない訳ではない。
しかし舞台に上がりお金をもらえるたち振る舞いかと言うと、正直首を傾げざるを得なかった。
友人の誘いで旗揚げ直後の拙い舞台を見て感激したらしく、それ以来この世界に飛び込んできたのだ。
入団したのが、およそ2年前。それまで演劇らしい演劇に触れてこなかった彼女、当然いきない舞台に立つことはできず、これまた当然に裏方の仕事が多かった。
同期の鷹梨が主役を張り、後輩にあたる貴中が大役に抜擢され、新馬はいつも小さな脇役を務めていた。
いつも心の中で詫びていた。
先ほども言ったが、この世界に年功序列は存在しない。あるのは演劇キャリアであり、すなわち実力である。
日常生活では演劇に関する能力素質を問われることはまず無い。あっても学校の小さな学芸会だけだ。
それはつまり、一日でも演劇の世界に足を踏み入れ、一日でも多く演劇の練習を積むことは10歳年下であろうと重宝されると言う事である。
素人が年齢だけで役を取れる世界では無いのだ。それは重々承知している。
それでも毎日必死で稽古に励んでいる新馬に、大役を上げることが出来ないことに心の中で必死で懺悔していた。
* * *
「それで、『理緒のお父さんの会社』の皆さんは、結局はどうお考えなの? 自殺って事?」
「えぇ。捜査本部でもその案は出たらしいです。捜査本部では大きく分けて2つの案が出ました。
1つ目は、実は黒川さんは新作を書きあげていなかった。書きあげることが出来ずにそのことに思い悩み自殺したという案です。