凍てつく虚空
暗闇になれた目を必死でこらす。小さくそして乱雑に荷物が置かれたスペースの奥から、霧の声が聞こえる。
「違うよ・・・、私じゃないよ・・・、」
弱弱しく聞こえる声が目印になる。
霧綾美はそこにいる。今一度両手に力を込める。この右手と左手を結んでいるロープで霧の背後から喉を締め上げる。気道を強圧すれば助けての声すら出せない。
他のメンバーに気付かれることなく、ことを終えることができる。
そして予め用意してあった、自白文を置いておけば、すべて終了。
―――待っててね、おじいちゃん
目の前の毛布の中から、霧の声。
「バイバイ、綾美」
驚くほど冷たい声で最後の口にした。
その時だった。
明かりがついた
パチ、と言う乾いた音が鼓膜を震わせた。
一瞬何が起こったのか。分からなかった。気が付けば物置の中、いやそれだけでなく山荘全体に明かりがともされたようだった。
「いらっしゃいませ」
男の声だった。
物置の入り口からだ。
身体をそちらに向ける。
いるはずのない人間だった。だってすでに寝入っているはずだ。さっきだって山荘に明かりはなかったし、物音を立てないように細心の注意を払ってきた。
なのに、なぜ?
「お待ちしておりましたよ」
はめられた。
瞬時に思った。
待ち伏せられていた。
「あんな話をして霧さんをここに閉じ込めておけば、あなたは必ず最後に始末しにくると思ってましたよ」
こちらの神経を逆なでするような柔和な声だ。
しかしそれ以上に自分に腹が立つ。
最後の最後でしくじった。
「ちなみにそこに霧さんはいません。本物はこちらです。もちろん他のメンバーの方も皆そろっております」
こう言うと、男の影から小さな体躯の少女が顔を出す。目があった。今私が殺そうとした人物と目があった。
驚きと、そして寂しさが入り混じった目だった。
たまらず視線を外す。
毛布をめくってみれば、ボイスレコーダだ。ちっぽけな機械が馬鹿の一つ覚えのように「違うよ私じゃないよ」と繰り返している。
「さぁ、真犯人さん。聞かせてもらいましょう。なぜ『あなた』がここにいるのか。ねぇ・・・
『田子藍那』さん?」
* * *
目の前には田子さんが立っていた。全身を黒のジャケットで覆い、手には新品の革製の手袋、そしてその手にはロープが巻かれていた。
一度『死んだ』はずの田子藍那さんが、なぜそこに立っているのか。私には全然わからなかった。
食事のときに毒を口にして倒れた田子藍那さん。しかし生きていたのなら、精いっぱいのハグで迎えてあげたかった。
しかしそんな雰囲気はない。田子さんの表情は明らかに曇り、そして苦虫を潰したような表情だった。
明らかな敵意がこっちに伝播してくる。
「田子さん、あなたは何故そこに立っていらっしゃるのですか? あなた一度毒を口にして倒れてらっしゃいますよね?」
田子さんは何も答えない。
ただ鋭くとがった視線を投げつけてくるだけだった。
すると、手に持っていたロープを投げ捨て、物置の中にあった木の箱に腰を下ろした。
「毒を口にしたけど奇跡的に一命を取り留めて、嬉しさのあまり霧さんの閉じ込められている物置に、しかもご丁寧に合鍵を使って入った、なんて言いませんよね?」
「さっきの推理ショーは演技?」
「そういうことになりますね。真犯人を油断させておびき寄せるための、まぁ古典的ですけどね。あなたが山荘内の会話を聞いてることは分かりました。この山荘のいたるところに盗聴器を仕掛けて、集まった声を外のあのプレハブ小屋で聞いていたんですね」
「良く分かったわね」
「まぁ何となく。確信はありませんでしたけどね。ただあなたが犯人ならこの山荘の内部の動きを把握する必要がある。自分ならどうするか。もともと自分の用意した舞台なら盗聴器を使うだろうなと思っただけです」
「探して見つけたところでどうにもならないでしょう。むしろこちらの動きに気づかれるだけです。ですので音声だけで犯人を騙させてもらいました」
「なるほど」
「宜しければ、本当の解答編を上映したいんですが」
「お願いするわ」
「では、まず田子さん、あなたはこの山荘のもともとの所有者の『黒川影夫』さんの親族の方ですね?」
「黙秘権」
「なるほど。取り敢えず話を続けます。あなたはずっと前から今回の殺人事件を計画した。その準備に電力会社や水道局に連絡して一時的にライフラインを通してもらった。
そして今から一ヶ月ほど前、一度ここを訪れている。食料や水の置きにくるためと、盗聴器の設置、そして実際に事件を起こすときのシミュレーションのため。
それらが済み、さぁ本番です。しかし本番を行うに当たって、欠かせないものがあります。」
「協力者のことね?」
そう答えたのは田子本人だった。
「えぇ、そうです。今回の一連の事件は田子さん、あなたが確かに主犯ではありますが、でもしかしあなた一人のチカラでは決して成し得なかったはず。そう、あなたの犯行に力を貸した人間は必要です」
鷹見の言葉にその場にいた全員ががっと、互の顔を見合わせた。何人かの視線が私のそれと交差した。
「正確に言えば、『協力者だった人間』といったほうが良いでしょう。その人間は確かにいました」
「ふうん。で、誰?」
田子本人はまるで他人事のように口から紫煙をふかした。その紫煙自体も我関せずと言わんばかりに霧散していった。
「まずは、『白川光一』さんです。確かあなたがたのマネージャーさんだとか。なんでも話によると、皆さんがこの山荘に到着したあと、自ら麓の村に救助を求めるため下山を試みて、そしてその麓の村で亡くなった、そうですね」
「さぁ・・・」
「否定も肯定もしませんか。まぁ良いでしょう、話を続けます。自分はこの白川光一氏を知りません。会ったこともありません。どのような人物なのかはここにいる皆さんの証言でのみ推測せざるを得ません。しかしそれを承知の上で断言します。
白川光一氏の思考・行動は矛盾だらけである」
「例を挙げて」
田子のその端的な言葉には、しかしどこか淡々とした口調が消えていた。彼女が必死でその高ぶる感情を無理に押し殺している、そう思った。
「彼は本来の目的を達成していない。その一言に尽きます。彼はなぜこの山荘を飛び出したのですか。もちろん、救助の要請のためです。雪深く半分幽閉されている職場の同僚をいち早く助けるために、自らの身体が危険にさらされてもお構いなしに、
単身麓の村まで駆けつけた。道もわからず、途中でバスが立ち往生してしまう可能性もあります。そうなれば自分は助けを求めることもできずに、そして同時に職場の同僚の精神的負担を少しでも軽減させてあげる、と言う仕事もできなくなります。
しかし彼はそれを顧みず、救助を呼びたい、の一心でこの山荘を飛び出しました、そこまではよろしいですか?」
「間違いではない」
「では、ここで問題なんです。その彼はやっとの思いで麓の村に到着しました。命からがら、まさに九死に一生を得る思いだったんでしょう。ではその彼が次は何をしたでしょうか。『何もしなかった』んです。