凍てつく虚空
確かにそう口にした。
「アオ?」
最初、それが何を意味しているのか分からなかった。
色の「青」なのか、それとも何かの頭文字なのか、はたまた長文の最初の言葉なのか。
もう一度耳を欹てる。
「・・・あお・・・」
確かにそういった。聞き間違いではない。
これは死に行く人が最後の力を振り絞って犯人の名を残そうとするダイイング・メッセージだ。
だとしたら「青」にはどんな意味が・・・?
と訝しんでいるときだった。
猪井田は、僕の顔を見て、顔を横に振りだした。
なんだ。何があったのか。
そう思っていると、
「・・・・・・あお」
やはり同じ「青」と言う単語しか出てこない。
しかし口から血を流し、目の焦点の合ってない、その蒼白とした口から発せられる言葉ははやり、
「・・・・・・あお」
と同じ言葉だけだった。
そして同じように首を横に振り続けるだけだった。
なにかを拒絶、あるいは拒否しているようだった。
しかし、猪井田も力尽きたのか首がぐったりと下がってしまった。
今までかすかに保っていた呼吸も、そして脈も無くなっていた。
身体を揺すってみても反応はない。瞼を無理やり開いて瞳孔を確認したが開いたままだった。
死んだ。
人ひとりが目のまえで殺された。
猪井田姫世が殺されてしまった
* * *
猪井田姫世は毛布で包まれていた
玄関のすぐそばに置かれていた。
そしてロビーには、僕と劇団「トワイライト」のメンバー全員が扱っていた。
それでも誰一人言葉を発そうとは思わなかった。ただただ沈黙だけだった。
「なんで、姫世は殺されなくちゃいけなかったん・・・」
真壁さんだった。真壁冬香。劇団「トワイライト」の年長者であり創始者のひとり。殺された猪井田とは旧知の中で、親友でもあった。
その猪井田さんを殺されたのだ。見るからに温厚そうな真壁さんもただではないだろう。
それに対して不二見美里が立ち上がる。
「先に言っておきますが、私ではないですよ」
その言葉で火に油を注がれたのか、真壁も烈火のごとく感情が高ぶった
「じゃあ誰だていうの!!」
鼓膜の奥まで響き渡る声だった。
「この山荘には私たち以外誰もいないんでしょ。だったらこの中の誰かってことじゃん!」
確かにそうだ。この山荘に秘密の抜け穴はない。山荘に電気や水道が通っているということは、その公共料金を払っている人間がいるということだ。
謎の侵入者がいるというよりは、計画的にこの山荘に潜り込んだ、と表現したほうが良いだろう。
そんな人間がこの山荘にいる。僕は椅子から立ち上がらず、みんなの一挙手一投足を見守った。
「それより猪井田さんが最後に言った『アオ』ってなんなんでしょうか」
新馬だった。
「『アオ』はやっぱり『青』のことなんじゃない」
「でも『青』ってなに。『青』なんてつく人いないよ」
まわりを見回す
今この場に残っているのは
・真壁冬香
・不二見美里
・知尻マリア
・霧綾美
・貴中怜
・新馬理緒
・鷹梨愛
そして自分の鷹見秋志郎だ。
確かに名前に『青』がつく人はいない。
猪井田姫世は死ぬ間際、犯人となる手がかりを残した。それが『青』と言う言葉だった。
それは犯人を指し示す言葉であるはずだ。しかし肝心の『青』に該当する人間が誰一人いないのだ。
名前、もしくは目につく青いものを身に着けている人がそれに該当するのであろうが・・・。
そもそもそんな人間がいない。
じゃあ一体『青』は何を意味するのか。
その『青』の意味する人物とはいったい誰なのか。
その真意を確かめようにも、当人はこの世にはいない。
確かめようがない。
* * *
息がつまるような空間だった。
隠し持っていたサバイバルナイフを両手で握り、渾身の力で彼女の胸を抉った。
その肉を裂くが今も手に感触が残る。
顔には出さないが、今回の犯行がうまくいってよかった。正直、ギリギリの綱渡りだった。
犯行を誰かに見られれば全てが終わっていた。私の姿を見たそいつも殺さなくてはいけなかった。それは時間もないし、なによりまた別の目撃者を生みかねない。
だからこれだけは誰かに見られる、即ち失敗になっていた。
だから今回の犯行が誰にも見られずにことを終えることが出来たのは、ある意味奇跡だ。神に感謝しなくてはいけない。
荒ぶる呼吸を沈め、じっとりとかいた汗を拭う。
ただそれだけの動作で神経を使う。
猪井田姫世が残した最後の言葉。あれは死に行くものが最期に残す言葉、ダイイングメッセージというものだろう。それ即ち、『私』を指し示す言葉だ。
「アオ」と呟いていたあの言葉は「お前が犯人だ」と言っている。
でも大丈夫だ。
だれもそのことに気づかない。
誰も「アオ」が私だとは気づくまい。
ただ、不安が残る。
彼だ。あの「鷹見秋志郎」とか言う青年だ。劇団のメンバーはことミステリと言うものには疎い。強いて言えば猪井田姫世か。ただ彼女は今死に絶えた。
だからメンバーからダイイングメッセージで私に行き着く人間はいないだろう。
でもあの青年は未知数だ。
飄々として軽薄な青年に見えるが、どうやら鷹梨と一緒に今回の事件について探っているようだ。
どこまで探りを入れたのかは、残念ながら分からない。でも危険因子には違いない。
できれば消してしまいたい。でも彼の消去は計画にはない。計画にはないことを強行して綻びが出てもらっても困る。
しょうがない、今回は静観するとしよう。
ゆっくりと頭の中のハードディスクに蓄えられた作品の余韻に浸る。
何を読み返そう。
やはり『黒川影夫』の「残された遺産」だろう。
猪井田姫世が残したダイイングメッセージが、残されたメンバーへの遺産に等しいからな。
『残された遺産』
一代で巨万の富を得た大富豪家がいた。
戦後から鉄や医薬品、鉄道、航空、鉱山、不動産と幅広く手がけてその全てを成功させた男。
五代あっても使い切れない莫大な財産を残して、彼は病魔に蝕まれこの世を去った。
社会を震撼させたのはこの後である。
その男の残された数え切れない遺産は、何のつながりもない5人の人間に渡ることとなった。もとより身寄りのなかった男は、その遺産の全てを全く関係のないランダムに選出された5人に配るように遺言書で残した。
遺産を配るのは死後一週間後。しかしその遺産は5人に均等に配るのではなく、誰か一人に全額を譲ることとする、と書いてあった。
その全額配られる一人は誰かは分からない。でも、その配られるはずだった人間が死去した場合、残った人間の誰かに遺産相続権が渡るものだった。もしその渡った人間も死去したら、また別の人物に。という具合だった。
5人の壮絶な欲望剥き出しの争いが始まる。
互いに、まず遺産受理候補者は誰なのかから調べ始め、ライバルとなる候補者の素性から何から調べて、互が互いに殺人を計画する。
罠に嵌め嵌められ、血みどろの遺産相続の争いをする。
もともと縁もゆかりもない人間なのだから、遺産とは無縁の人間だったはずである。遺産が入らなかったからといって損をするわけでもない。