凍てつく虚空
確かに5時間目の算数は、進路が遅れているとのことで進むのがとても早かった。なのでいつもは全体を使わない算数の時間でも、この日だけは黒板全体を使ったのを覚えている。当然、消すのにもそれ相応の時間がかかったのも覚えている。
しかし、だからといって私が犯人になってしまうのか。それはどうしても納得がいかなかった。
「鷹梨聞こう。お前は5時間目の算数が終わって黒板の文字を消すのに思いのほか時間がかかった。気がつけば次の6時間目の音楽に備えてみんな移動していた。本来は教室を最後に出る学級委員も係の仕事が終わるまで待たない。
鷹梨が黒板消しの仕事が思いのほか掛かりそうだったから、そのまま教室をあとにした。
つまりだ。本の数分間だが、鷹梨、お前は教室でたったひとりになる時間があった」
「違います!!」
私はとっさに叫んだ
「同じクラスのことだ。小林がそう言った特殊な状況に置かれていたことも重々承知していた」
広尾先生はゆっくりと近づいてくる。
「そして今日は小林の財布にはいつもより多めの現金が入っていることが分かった。およそ、小林の何気ない会話に聞き耳を立てていたのではないかな」
「先生信じてください」
それでも広尾先生は右足を左足を交互にこちらに向けてくる。
「もうすぐ夏休みだ。何かとお金も物入りだろう。少しでも懐を暖かくしたい、そんな思いで君は今回の犯行に及んだ、違うかね?」
「違います。そんなことしません」
次第にクラス中の視線が集まてくる気がした。
それも悲哀ではなく、懐疑の目を。
ふと視線を横に向ければ、委員長の長岡くんや福田さん、そして小林さんや、あろうことかユキちゃんやモエちゃんまで。
揃ってみんな「あなたがやったの?」と言わんばかりの目でこちらを見つめてくる。
「確かに、魔が差すとうことはある。君はまだ小学生だ。精神的にそれほど成長してない。誘惑にうち負けてしまうのは最もだ」
「違う・・・」
来るな
「しかしね、教員はなんの為にいると思う」
来るな
来るな
「君のような迷える、言わば子羊のためにいるんだよ」
来るな
来るな
来るな
「間違いは誰にだってある。でもそれを治す、その手伝いをするのが我々教員の役目だ」
来るな
来るな
来るな
来るな
「さ、本当のことを言いたまえ」
来るな
来るな
来るな
来るな
来るな
「本当は君がやったんだろ?」
あっちへ行け!
その時だった
「先生、よろしいですか」
クラスの70近い瞳が一瞬で私のすぐ後ろに注がれた。
私の2つの瞳もその一つだった。
声の主は私のすぐ後ろだった。
「言いたいことがあるのですが」
そう、それが思ってみれば、私と鷹見くんの最初の出会いだった。
* * *
「なんだ、鷹見」
「言いたいことがあるのですが、よろしいですか」
鷹見はすっと立ち上がった。
小柄で身長は当時140cmもなかった気がする。分厚いメガネをかけており、服装もセーターの上にカーディガンを羽織っている少年だったことを思い出す。
いつもほかの誰かと仲良くしている所は見かけたことがない。ずっとひとりで本を読んでいるか、図書室に趣いている、そんな印象しか受けなかった。
しかしこの時ばかりは、かれの背景がひどく光っているようにも見えた。
「今かい?」
「えぇ。いまです」
「あとにできないかい?」
「できません」
ひどくぶっきらぼうな返答だったことを覚えている。
「なんだい、言いたいこととは」
「広尾先生の話は論理的に破綻しています」
クラス中がポカンとした。
そうであろう。小学生が『論理的』とか『破綻』って言葉を使うこと自体がおかしいのである。
しかし当の鷹見くんは続ける。
「広尾先生はなぜ鷹梨さんを疑うのですか」
「なんでかって? それは彼女しか財布を取ることができないからさ」
「なぜです?」
「なぜ? だってそうだろう。小林の財布がランドセルのどこにあるか分からないのであれば、探す必要があるであろう。おそらく最低5分は必要だっただろう。小林が最後に財布を確認してから、
5分以上誰にも見られずに教室に残ることが出来る人間はいない。たった一人を除いてはな。そのさがす時間があったのは教室を最後に出た鷹梨しかいないんだよ」
「では、ほかの人間にさがす時間があったら、鷹梨さんは犯人ではなくなるわけですね?」
「え、・・・まぁ」
「最も、鷹梨さんが犯人でない証明にはなりませんが。ただ単に他の人にも犯行が可能だったと、言えますよね。」
「鷹見、何が言いたい」
「もう一回確認しますが、ほかの皆さんに財布をさがす時間がもしあれば、鷹梨以外に犯人がいる可能性があるってことですよね?」
「・・・・・・確かにそうだ。しかしな、鷹梨以外にそんな時間のあるやつなんて」
「5分とは限らないでしょう。ものの10秒くらいで財布の位置がわかる人間もいるかもしれませんよ」
「それは無茶だな。小林は大金を持っていたから、毎回財布の隠し場所を変えていたそうだし、さっき言ったように隠し場所も凝っていたそうだ。そんな財布を10秒で探すなんて、それこそ超能力者だ」
「そうでもありませんよ、例えば・・・、あれところで先生。財布が落ちそうですよ」
「ん、本当か」
広尾先生はズボンの左のポケットに手を伸ばした。
「先生の財布はズボンの左ポケットにありますね」
「あ・・・」
「簡単ですよ。財布やあるいや貴重品がどこに隠してあるかを探すなんて。本人が勝手にその場所を教えてくれますからね。
しかも当の本人は財布の場所を教えておる自覚はない。
今回の事件もこんな簡単な心理トリックを使ったんじゃないでしょうか。犯人は予め、小林さんに『小林さんの財布に似たものが落ちてたけど大丈夫?』なんて声をかけたんじゃないでしょうか。
そうなると、小林さんは不安になってその場で確認するでしょう。その姿を見れば今日は財布をどこに隠しているか分かります。その後、人がいなくなったら改めて財布を盗る、あるいは鷹梨さんがせっせと黒板を消している間にことに及ぶこともできる。
どうですか、こんな感じで犯行を行えば、ものの10秒、いえ5秒ほどで財布が取れますよ」
広尾先生は何も答えない。
眉間に深いシワを寄せながら、ずっと鷹見くんと対立し合っている。
「ちなみに小林さん?」
「え、は、はい」
急に呼ばれたので小林さん自身は驚いたようだった。
「今日、『あなたの財布が落ちてるよ』なんて言葉をかけられましたか?」
「え、えっと、あの・・・その・・・」
小林さんは視線を右に左に泳がせた。
「・・・どうなんだ小林」
「・・・5時間目の休み時間に『小林さんの財布に似た財布を他クラスの子が持ってたよ、あれ小林さんの財布じゃないの?』って言われました」
「それで?」
「私、心配になってその場で調べました。でもちゃんと財布はあって、勘違いだったねって、笑って、でも教えてくれてありがとうって・・・」
「誰に?」
「・・・・・・内木さんです」
「あとは?」
「・・・いません」
内木さん?
ケイちゃん?