凍てつく虚空
いや、覚えがあっただけじゃない。
私はこの青年を知っている。会ったことがある。そして私はこの青年に救われたことがある。
そう、この青年はまさに命の恩人なんだ。
私はそっとこの青年のことを思い出す。
鷹見秋志郎
私と同い年の24歳、だけでなく元々同じ小学校の出であった。
小さな町の、その中のこれまた小さな小学校で、しかも6年生の時には同じクラスでもあった。
しかし中学校はというと、全く別々の中学校に進学することとなったのだ。
と言うのも、彼は小学校卒業とともに父親の仕事の都合で引っ越していったのだった。
そしてあれから12年の歳月を経て、再びこんな形で再開するとは思わなかった。
私には彼に感謝してもしきれない、そんな出来事があった。
ときは同じく小学校6年生の初夏、あと一ヶ月もすれば夏休みだね、みんなで小学生最後の夏休みをエンジョイしようよ、
そんな言葉で溢れかえっていた。
私も例に漏れなかった。
当時仲の良かった、今泉萌(モエちゃん)、内木圭(ケイちゃん)、清水美雪(ユキちゃん)、そして私の4人で一ヶ月後の40日間にも及ぶ自由の時間の使い道を計画していた。
そんないつもの毎日のうちの一日だった。
当時私には彼氏がいた。
彼氏という言葉を使うのが適切かどうかは分からなかったが、隣接する市の高校の男子生徒だった。
当時から一ヶ月ほど前に一人で駅の近くを歩いていたときのことだった。
道端で何かを落としたように、周りをキョロキョロ探している男子生徒と出会った。それが彼との出会いだった。
彼の名は『神保涼太』と言った。
聞けばこの辺りで生徒手帳を落としたとのことだった。駅で定期券を使った時にはあったから、落とすならこの辺りで落としたはずなんだと言いながら探していた。
そのまま無視して通り過ぎても良かったが、本人はかなり憔悴しきっていたようだったし、この後の予定もなかったし、何よりその高校生が今にも泣き出しそうな表情をしていた。
まぁ、ついでだと思って生徒手帳探しに付き合うことにした。
私は彼と一緒に駅からここまでの道のりを歩くことにした。大抵落し物は自分が歩いた場所で落とす、当然といえば当然。散々ここを探してなければもっと駅側、手前の道で落とした可能性が高い。
私は3歳も4歳も離れた男子高校生、神保さんと一緒に駅の方角へ戻った。
途中でいろいろな話をした。
高校は隣の市にある、ちょいと有名な私立高校にいること、
部活動はバスケット部に所属していること、
でもレギュラーではなくベンチメンバーであること、
父親が弁護士で自分もその父親に憧れて法曹の世界に進みたいと思ってること、
でも模試の成績が思い悩んでいること、
苦手な英語の単語帳に齧り付いて帰宅途中でこんなことになってしまったということ、
初対面の私にたくさんのことを話してくれた。
最初は相槌だけしかうっていなかったが、その時の彼の表情がとても柔らかで楽しそうだった。
純真無垢で屈託のない笑顔が少しドキリとさせた。
たった今まで生徒手帳をなくして泣き出しそうな顔だったのに、ふと印象をガラリと変えさせる笑み。
気づけば私からもいくつか質問をするようになっていた。
駅の周辺でさっきと同じように地面に視線を落としてみるがやっぱり見当たらない。
念のため駅の交番で生徒手帳の落し物はないか聞いてみた。
やっぱり不振に終わった。
やれやれ、どうしようかと言う空気になったとき、彼があっと叫んだ。
ブレザの内ポケットに手を突っ込んでみる。
すると、そこからは小豆色の表紙をした生徒手帳が出てきた。
神保くんは、ばつの悪そうに頭をかきながら一生懸命詫びた。
「そう言えば、英単語帳を見ながら帰るから生徒手帳を落とさないように、いつもと違う場所に入れたんだ。本当にごめん」
そう言うと額を地面に付けそうな勢いで頭を下げた。
私は少し困惑した。
年齢が3つも4つも下のただすれ違っただけの小学生に、こんな深々と頭を下げるだろうか。
私がしたことといえば、神保君の話を聞いたことと地面を見ながら道を歩いたことぐらい。それ以外に何もしていない。
「ごめん、悪かった」の一言で済むといえば済む。それをこの人は良しとしなかった。
「いや、迷惑をかけた事には違いがないから。悪いことしたなら、それが誰であろうと謝るのが筋ってもんさ」
そう言うともう一回頭を下げた。
私は周りの人も見ているし、と止めさせた。彼はいやしかし、と不服そうだった。
表面では迷惑そうな顔をしていたかもしれない、でも心の中では既に彼に惹かれていたのかもしれない。
今となってはそう感じる。
その後、「お詫びだから」と近くのカフェでコーヒーをご馳走してもらった。
そこで沢山の話を聞いた。
彼の小学生の時の昔話、
非常ベルを押しては先生から逃げていただの、
図画工作の時、ハンダとハンダゴテを勝手に持ち出してはぐれメタルを作っただの、様々なやんちゃをしてきた。
中学校では、心を入れ替えて生徒会に立候補した、
でも僅差で落選した、
高校入試は当初、担任の先生からなかなかOKが出なかった、
でも必死で説得して、父親の跡を継たい、とプッシュして最後は先生が根負けしただの、
塾を2つ掛け持ちして、毎日睡眠時間は3時間ほどだったとか、
でも合格発表のときは本当に嬉しかった、
高校の勉強は難しい、地理(高校では社会ではなく、地理や日本史・世界史なんて言うらしい。ややこしいね)なら興味があるから何となくわかるけどね、
そんな話を面白おかしく聞かせてくれた。
その時の彼の満足そうな笑を見ると、本当に楽しそうだな、毎日が充実してるんだな、とそう思えてきた。
もっと話を聞きたい、もっとそばにいたい、そう思えていた。
お互いに連絡先を交換し、定期的に会うことになった。
週に1回ほどしか会えないし、しかも彼も部活動の関係であまり長い時間は会えなかった。会えても1〜2時間程度だった。
でもそれが最高に楽しかった。
夏休みは部活動の休みもある、できれば一緒に遊園地にでも行かないか、勿論親には内緒で、と誘われた。
一も二もなく飛びついた。
頭の隅には、モエちゃん、ユキちゃん、ケイちゃんと遊びに行く予定もあったが、なんとか調整すれば良いやと思っていた。
とにかくそれからが、早く夏休みにならないかなとばかり考えていた。
「じゃあさ、この日はどう!?」
ユキちゃんだった。ユキちゃんは、計画を立案するとき真っ先に提案する。
自分のハローキティのメモ帳を大きく開いて、その日時をしてする。
「ん、いいね。私は空いてる」
「私も」
モエちゃんも、ケイちゃんも揃って肯定する。しかし・・・、
「あぁ・・・、私その日だめだわ・・・」
「ええ。もうあとはこの日くらいしかないよ。なにか予定あるの?」
「お盆でもないでしょう」
「んとね、実はね・・・、他の人と出かける用事があるんだ」
「誰と? まさか男じゃないでしょうね?」
私は逡巡した。別に嘘をつく必要はない。いずれ遅かれ早かればれること。ならこの際早い段階で言ってしまおう。そう思った。
「そのまさか、なんだよね」
「ひぇぇぇぇぇ! うそ!ホント?」