凍てつく虚空
その言葉に反応したのか、青年は今までコーヒーにあった視線をこちらに向けてくる。
なんとも屈託の無い笑顔だ。
「あぁ、すいません。助かったと思っちゃって、つい・・・」
じっとりと湿気で湿った髪の毛をかきながら、青年は話す。
「趣味が山登りなもので、こんな季節外れな雪山も良いかなって思ってアタックしたは良かったんですが、いやはや自分の能力を過信しすぎるものじゃないですね。
まさかこんな事態になるとは、夢にも想いませんでした」
饒舌だった。
そして極めて楽観的だ。
青年の話からするに、今の今まで遭難しかけていたんだろう。
この天候である。それは生死に関わる事態であろう。それをまぁこんな軽く話せる人間もそうはいなだろう。
そして話が切れなくて無駄に長い。
「ここに山荘があって助かりました。ここで休める場所がなかったら今頃、冬眠から冷めた野熊の非常食になっていましたよ」
笑えない。
現に今の今まで遭難しかけていたんだ。その可能性は非常に高い。
そんなことないですよ、と笑って済ませる話でもない。
この人はとにかくなにものなんだ。
「いやいや、本当にすいませんね。右から見ても左から見ても美女が並ぶお屋敷に、こんな無粋な闖入者とは。
いやはや、お邪魔じゃなかったら、ここで嵐が止むまで少し待たせてもらっても宜しいでしょうか?」
「え、・・・えぇ」
猪井田さんもその底なしの能天気の雰囲気に気圧されたのか、思わず頷いてしまった。
「いやぁ、それにしても圧巻ですな。これほどの女性がこんな人里離れた寂れた山奥、おっとこれは言い過ぎでしたね、失礼。
しかし羨ましいですね。年の初めにこんな場所で新年会を開ける場所をお持ちとは、大学のサークルの会合ですか、いや何処かの企業のお嬢様とか?
会社の建物を使った懇親会?・・・いやはや羨まし限りです」
「いえ、違うんです。ここは実は・・・」
猪井田さんの言葉を遮るように青年は言葉を矢継ぎ早にけしかけてくる。
「僕もね、とある目的地を設定してここまで来たんですよ。地図も用意して」
「はぁ・・・」
「まだ昔は方向感覚と言うんですか、どっちが東だどっちが西だって、絶対方向感覚には自信があったんですよ。絶対方向感覚?、ふぅん、自分で言っておきながら、意味わかんないですね。
ま、あれですよ。絶対音感ってあるじゃないですか。1つ1つの音の
高さを即座に答えられるってやつです。あの方向感覚だと思ってください。これには自信があったんですけどね、年も取ったし、それにこの吹雪でしょう?
はぁ、やっぱり頭の中の地図だけで目的に到着できるほど日本の冬は甘くないってとこですか」
「・・・・・・、えっと、その目的地は何処なんですか?」
「うん?、いや、これは失礼しました。自分で喋りすぎてしまったようですね。目的地はこの地の周辺にあると噂される、聖地ですよ。我々の。
実は大学の卒業論文の題材にと思いましてね。本来、僕の大学の同級生はパソコンに向かってにらめっこをしている時期なんですが、自分はそういうのが苦手で。
締切が一ヵ月後に迫っているんですが、未だにこうやって題材を集めることしかできてないんですよ。はぁ、これじゃ留年かな」
「ええっと、あなたは大学生なんですか?」
「いかにも、・・・とはいえそんな偉そうな事は言えませんね。都内に星の数ほどある私立大学のうちのとある学生ですよ」
正直、いらつきが溜まってきた。
ここまでの会話で得られた情報はこの青年が、大学生であること、卒業論文の調査でこの地に赴いたこと、昔の自分の力を過信し遭難しかけたこと、そんなことくらいしか
伝わってこない。
しかし、この青年、どこかで見たことがある。
「あの・・・、えっと、そのあなたが目指している聖地って何処なんですか?」
風が止んだ。
雪が止まった。
不思議と音が無くなった。
「『黒川影夫』の遺された山荘ですよ」
え?
メンバー全員が息をのんだことだろう。
『黒川影夫』
その言葉のもとにまた一人、惹きつけられたことを。
「あの・・・」
「はい?」
「ここがそうですよ」
「うん?」
「ここがその『黒川影夫』の山荘ですよ」
その言葉のあと、ほんの数秒だけ静寂が訪れた。青年が口を閉ざしたのだ。偶然にも嵐は一時的にその勢力を弱めた。
まるでこの時を待っていたかのように。
「・・・本当ですか?」
「えぇ」
「・・・・・・そうですか」
青年は想像以上に静かだった。
その自ら聖地といったその場所にいるにも関わらず、青年は一言も発しなかった。
ただその山荘の隅から隅まで、網膜に焼き付けようと必死なくらいだった。
その表情が神秘的だった。
女性は男性のギャップに惹かれる、なんて言う低俗な雑誌が騒ぎ立てるのが少しわかった。
そこに多少の高揚感があったのは認める。
「ここが先生の・・・」
「先生?」
「えぇ。僕の生涯の先生ですよ」
そこから青年の言葉は無かった。
しかしだった。私はこの青年に見え覚えがった。
だがどこだろう、いつどこであったかは覚えていない。
でも、これだけは覚えている。
―――私はこの人に救ってもらったことがある。
「いやはや、初めましての皆さんには説明が足りませんでしたね。僕は文学部出身なもので。世界に数多ある作家の中で『黒川影夫』さんの作品に多大なる影響を受けました。
海外や、国内の古典作品の文豪を卒業論文にしろと教授に言われたんですが、僕はその教えを守ることができなかった。自分が一番影響を受けた作家を追いたかった。
まぁそれだけなんですけどね。そしてその深さを学んでいったら、さらに深く沈んでいった。だからこそ先生なんですよ。そしてその先生の作品づくりの原点に行きたかった。
僕はそんな思いでこの山荘に赴いたんです」
青年は天井を見上げる、何か酔いしれるものがあったのかもしれない。そこでしばし時間が止まった。
「自己紹介が遅れました。僕の名前は『鷹見秋志郎』と言います」
その言葉を聞いた瞬間、私の中の赤い実がはじけた。
* * *
「へぇ、鷹見さん、帝桜大学の文学部出身なんですか」
鷹見は手渡された2杯目のホットコーヒーを両手で包みながら、その褐色の水面を眺めている。
猪井田さんの質問にもワンテンポ遅れて答える。
「まぁ・・・、出身というか現在進行形で在籍してますけどね」
「それで愛と同い年、ってか元々同じ小学校だったんだっけ。」
「えぇ。それも6年生の時は同じクラスでした。鷹梨と鷹見で字も似てるし出席番号も隣同士でした」
「ふむう。あれ、とすると君も24歳だよね、でいま大学生なんだって?」
「留年してしまったんですよ。ま、いろいろなことがありまして」
その瞬間の鷹見君は少し寂しそうな表情だった気がした。
みんなもその内容については深くは突っ込もうとしなかった。
ロビィの中央のソファの周りを私たち劇団のメンバーが囲んでいる。そしてその中央に一人の青年がコーヒーカップ片手に座っている。
彼の名は鷹見秋志郎と言った。
私はこの名前に覚えがった。