凍てつく虚空
―――まさか
心臓が早鐘を打つように暴れまわる。
自分の身体の一部なはずなのに、自分でも制御ができない。
血液が沸騰するように熱を帯びてくる。それも夥しいほどの熱量を。
猪井田が抱え込むようにして私たちの行く手を阻む。
膝は崩れ、手にも力が入っていなかったので払いのけるのは容易だ。
そのまま浦澤瞳の部屋の中に眼を向ける。
あぁ
人間はなんて脆い動物なんだ。
いとも簡単に壊れてしまう。
小さなときに悪戯して壊してしまったフランス人形みたいだ。
あぁ
とっても不思議だ。
吐き気もしなかった。
胸の辺りが熱くなることもなかった。
涙が決壊したダムのようにこぼれる事も、無きすがることも無い。
ただ眺めるだけだ。
さっきまでの3割り増しだった心臓も、今は平常に戻っている。熱も何処かに発散して行った。
むしろ寒いくらいだ。
立て続けに人の死に直面すると、人間ってこうなるのかな。
慣れって言うのは、本当に怖いな。
本当に怖いけど、本当に便利なんだな。
頭の何処かで、もう1人の私が冷静に自分を分析するのが解った。
ここ数日で、3人もの人間のしかも極身近な人物の死を眼の当たりにしたことになる。
眼の前には、浦澤瞳が首に縄を結んだ状態で宙に浮いていた。
* * *
メンバーは全員1階のロビーに集まっていた。
つい先ほど、2階の部屋で首を吊っていた状態で見つかった浦澤瞳を、全員で協力して下ろし、ビニールシートで包んで
鶴井、田子と同様に山荘のすぐ外にある物置の中に安置した。
その後、一旦ロビーで腰を下ろした。
他のメンバーの顔色を伺うまでもないが、全員憔悴しきっていた。
焦り
恐怖
混乱
そして狂気。
そんな大凡負の感情が全て集められて、濃縮されたような空気だ。
それなのに、発せられる言葉がゼロと言うものまた、暗澹たる空気に拍車を掛ける。
「何で・・・・・・、こんなことに」
誰かがポツリと呟く。新馬だった。
「瞳さん、何で死んじゃったんですか?」
『死んだ』
その言葉が、鉛のように胃に圧し掛かる。
眼を閉じれば、ついさっきの凄惨な現場が鮮明に蘇る。
首にその全体重が掛けられた状態で、浦澤瞳は宙に浮いていた。
まず反応したのは嗅覚だった。
糞尿や血の生臭い匂いが鼻孔を突いた。
何処かで聞いたことがある。
首つり死体と言うのは、すべての屍体の中で最も醜くなるらしい。
肛門から尿道まで力が入らなくなるため、垂れ流し状態になると。
また首、つまり頸動脈が極度の圧迫されるため、首から上の血液が半身まで帰ってこない。
故に、顔面がパンパンに膨れ上がると。
その姿はもはや生前の面影どころか、人間に見えなくなるとまで。
床から1m以上の高さに吊るされていたため、浦澤を引き下ろすのに酷く苦労した。
下ろしたところで、改めて浦澤瞳の表情を見る。
いや、既に浦澤瞳だったもの、肉塊だった。
どす黒い紫色になった、異常なまでにはれ上がった顔。
牛のようにだらしなく放り出された舌、眼は濁りきった白目。
見るに堪えないとは、この事だった。
これは恐怖だ。
思い出しただけで、胸糞が悪くなる。
それでも気分が悪くなる事はない。
恐らく、慣れたのだろう。
それが何よりの恐怖だった。
こう言った人の死、それも自然死ではなく異形な死。
ましてそれが自分の身近な人物。
それなのに、最初ほどのショックを受けない自分がいる。
『死』に慣れた。
そう自覚するのが、最も恐怖を感じる。
「それが解れば苦労しないんだよ。」
「そもそも、あれは他殺だったのかな。だって足もとに踏み台みたいなのが無かったし。」
もう1度だけ思い返す。
必死で浦澤の身体を下ろす時、その真下には何も置いてなかった。
それは最初にあの部屋に入った私が証明できる。
「そりゃそうでしょ。自分から事件の真相が解ったって言っておきながら、自殺する奴じゃないし。」
その声に張りが無いながらも、不二見は話す。
「じゃあ、一体誰が・・・」
「決まってるでしょ。この中の誰かよ。」
「で、でもさ・・・、私たち、ずっと一緒にいましたよね?」
貴中の言葉だった。
その一言が衝撃波を生んだように駆け巡る。
誰もがはっと現実を突きつけたれたような顔つきになる。
それは私も同じだった。
浦澤の死で混乱していたのか、それが殺人であることは気づいていたが、その直前まで、
それこそ、浦澤瞳がキッチンを出てから部屋で発見されるまで、誰1人あのキッチンから外に出た人間はいない。
トイレに行った人間も、みんなが一斉に寝たと言うこともない。
紛れも無く、私たち8人は浦澤瞳が出て行ってああやって発見されるまでずっと一緒だったのだ。
では、
では浦澤瞳は一体誰に殺されたのだろうか?
「だとしたら、瞳さんは誰に、どうやって殺されたんですか?」
貴中の叫びにも似た疑問。魂の叫びであろうか。
私も考えていた同様の疑問。それは誰の口からも解答が語られることはなかった。
しんと、静まり返ったロビー。
「私たちは、ずっと一緒にいましたよ。だとしたら瞳さんは・・・、浦澤瞳は一体誰に殺されたんですか?」
独白のような、胸を引っ掻かれるような泣き声。
私は下唇を噛むしかなかった。
貴中はプライベートでも浦澤に懐いていた。
竹を割ったような性格や、男勝りな部分が共鳴したのだろう、貴中は浦澤のやることを日頃から意識し真似していた。
浦澤が早朝ランニングしていると言えば自分も始め、あの食材が身体に良いと言えば自分も食べる。
そんな日々だった。
それが急にこの世界から消え去ったのだ。
その痛みは、私には想像できない。
何か言葉をかけなくては。
先輩として考えたが、一向に頭に相応しい言葉が浮かんでこない。
突然だった。
猪井田の携帯電話が鳴りだしたのだ。最初、そこにいた全員があっけにとられた。今まで圏外でつながらなかった携帯電話が、ここにきてなり始めたのだ。
猪井田は急いで取り上げる。ディスプレイを眺める。着信があったようだ。
「誰から?」
「白岡さんだ」
そう言うとボタンを押して、通話を開始する。
「もしもし白岡さん、あのね私たち山荘で・・・!」
猪井田のまくし立てる言葉が急に途切れた。
どうしたというんだ。また圏外になり通話が途切れたのか。
いや違うみたいだ。微かではあるが、通話口から人の声が聞こえる、しかし、自分たちの知っている白岡さんの声ではない・・・
猪井田はスピーカーボタン、皆にも通話が聞こえるようにしてくれた。
「あの、もしもし誰ですか、白岡さんじゃないんですか?」
その質問に対し明確な答えが帰ってこない。ただ向こうから人が大騒ぎしている声しか聞こえない。それもお酒で馬鹿騒ぎ、と言った類でないことは伝わってくる。
何か向こうで大きな事件が起きたようだった。
すると、向こうの通話口に人が出た。
「おおい! ようやくつながったっぺよ!」
何を言っているんだろう。少なくとも標準語ではなく、少し訛が入っているようだ。そして私たちでなく、通話口の向こうの相手方に対する言葉だったみたいだ。