凍てつく虚空
それに静止をかけたのは猪井田だった。
「怜、本当にトイレ?」
「何言ってるんですか、本当ですよ。」
「もしかして、そのまま2回の浦澤の部屋に行こうとしてたんじゃないの?」
貴中の表情が一瞬曇る。
「本当にトイレですよ。どうして私が瞳さんの部屋に行かなくちゃいけないんですか?」
「浦澤に今回の事件の真相を見破られたくないからに決まってるじゃない。」
「言っておきますけど、私は違う。犯人じゃない。」
「ここにいる皆が皆、同じ事言うわよ。」
「でも私は本当に違う。」
「言うだけなら簡単なのよ!!」
空気が破裂したみたいだった。
猪井田の口調が瞬間的に変わり、瞬く間に静謐が広がった。
「ごめん・・・、感情的になった。でもここで動くイコール犯人だって思われても仕方ないわよ。
それに浦澤が言ってたでしょ。あと何分もしないうちに真相を教えてくれるって。それまでトイレは我慢して頂戴。」
貴中は無言のままだった。
「それとも本当に漏れそう?だったらここにいる全員でトイレまで行くけど」
「大丈夫、心配しなくて。」
貴中は元の席に戻る。
「ただここでじっとしてるのが嫌だっただけですし。」
猪井田もうんと頷く。
「みんな、何か飲みます?」
今度立ち上がったのは、霧だ。
「あ、良いですよ、霧さん。私が用意しますよ。」
思わず後輩である私が立ち上がった。
「良いから良いから。私もじっとしてるのが苦手なだけだから。」
小さな体躯をすばしっこく動かしながら、キッチンの奥の冷蔵庫に向かう。
「神経すり減らしてピリピリしてると、喉も渇くでしょ。何か欲しいものあったら言って下さい。」
これまた舌っ足らずな声色が、メンバーの毒気を抜いていく。
壁の陰になっているが、冷蔵庫を開けたのだろう、淡い光が仄かに揺れる。
自然と笑みがこぼれる。
「霧も良くこの状況で平気で飲み物なんか飲めるよねぇ?」
知尻だ。
それに不二見が応える。
「そこが霧さんの長所って言うか、持ち味なんでしょうね?」
「うんにゃ、ただ単にずぼらなだけじゃないの。」
「そこが長所なんですって。」
「ふ〜〜〜ん、なるへそ・・・・・・。
ところでさ、瞳は一体、どんな推理を展開させたんだろうね。真壁さんどうです?ってか本当に解ったのかなあいつ?」
「意外と動物的勘は鋭いほうだし、なんかの拍子に閃いたって事も考えられる。あるいは浦澤だけが何かを目撃したって事も考えられるけど。」
「何かを目撃したって、じゃあそれって何を目撃したんでしょうね?」
「それが解んないからお手上げだ・・・・・・。ふむ、時間もそろそろだね。瞳ももうじき降りてくるでしょう。」
「皆さんお待たせ〜〜。コップ探してたら遅くなっちゃった。」
そう言って右手には2リットルの烏龍茶、左手と両脇にはガラスのコップを携えて戻ってきた。
「誰かほかに飲みたい人手挙げて。」
その陽気な声に誰も反応しないように思えたが、意外にも貴中が手を挙げた。
「あんた、本気で飲むの?毒が入ってたらどうする気?」
「平気ですよ。ちょっと舐めて異常があるようだったら吐き出せばいいんですよ。」
霧が2人分の烏龍茶を用意し、1つは自分、もう1つは貴中の目の前に置いた。
流石に、あぁ強気なことを言ってはいたが、いざ眼の前に出されると怖気づいたのかコップをなかなか持とうとしない。
霧はというと、そんな貴中を意にも介さず、一気飲み。
飲み終わったら、ぷは―――と親父の如くリアクション。
それを見て少しは安心したのか、貴中も恐る恐る口を近づけ、舐めてみる。
よく口の中で転がしてみて、漸く何とも異常がないと解ると、少しずつ乾いた喉を潤わせていった。
「冷えてる烏龍茶も美味しいね。」
屈託の無い霧の笑顔。
「え、あぁ、はい。そうですね。」
味もくそも解らなかったと言わんばかりに、大きく安堵の吐息。
見ているこっちもハラハラした。
「大した無神経ね。2人とも」
「お褒めの言葉として受け取っておきます。」
さて、取り敢えずこれ以上の被害者が出なかっただけ良かった、と胸を撫で下ろす筈だったがどっこいそうも行かない。
「それにしても瞳ちゃん、遅いね。」
霧の言葉で皆は我に返った。
知尻が腕時計を見る。
かれこれ20分近く立っていた。
10分で戻ってくると言ったが、未だに何の連絡も無い。
「ごめん、もう少し時間ちょうだい。」と鼻歌交じりで顔を出しても良いはずなのに、その気配すらない。
「遅いな。もう寝ちゃったとかないよね。」
不満とばかりに不二見が時計を覗く。
「あいつならあり得るな。様子を見てこようか。」
猪井田が1人で立ち上がろうとすると、今度は貴中だ。
「1人で部屋を出るなって言ったのは、何処の誰ですか?」
明らかに根に持っていた。
しかし、貴中の意見も正しい。ここで動いたら変な疑いを掛けられそうだ。
「解った。じゃあ、あと10分経っても瞳が姿を表さなかったら、全員で見に行こう。」
猪井田の提案の元、メンバーは己の椅子に座って静かに時の流れを待った。
1分、2分、3分、階段を下りてくる足音が聞こえない。
4分、5分、6分、窓を掠める雪の音が耳を突く。
7分、8分、9分、誰かの貧乏ゆすりの音が広がる。
10分、遂に何者の声も存在しない。
「何か、嫌な予感がします。」
私の口から不意に出た言葉だった。
その言葉に全員が肩を震わせる。
「やだ、鷹梨、変なこと言わないでよ。」
猪井田の声だ、しかしさっきまでの威勢が失せている。
「そうだよ、きっとあれこれ考えてるうちに寝ちゃったんだよ。」
真壁の声も心なしか、浮ついている。
「とにかく、行くだけ行ってみよう。」
その一言で全員が立ち上がり、キッチンを後にする。
ロビーを横切り、階段を上るまで誰一人として言葉を発するものはいなかった。
皆、寝てしまっていると言ってはいたが、不安と恐怖でいっぱいなのだろう。
どうしても拭いきれない不安が胸の奥底で蠢き回る。
階段を上がりきった2階の廊下、その左側の一番奥。そこが浦澤の部屋だ。
と、その部屋のドアを見て違和感があった。
「あれ、ドアが半開きになってる。」
最初に気がついたのは新馬だ。
ほんの僅かではあるが、ドアが開いている。
嫌な予感が一瞬にして湧き上がる。最早それは予感ではなく悪夢、デジャブ、その類だ。
そのまま猪井田が近づき、ドアノブにそっと触れる。
ゆっくりとゆっくりと、ドアを開いていく。
恐る恐る、中の様子を伺う。
静かに静かに、息を殺す。
猪井田の顔つきが変わった。
動きが止まった。
眼を見開き、口をだらしなく開ける。
ビデオのスローモーションを見ているかのような緩慢な動き。
比喩でもなんでもなく、顔色が青冷めていくのが解る。
眼の焦点が一致してない。
「だ・・・・・・、め、だ・・・」
口をパクパクと上下させるが、肝心の言葉が出てこない。
「だ・・・・・・、だだめ・・・、みちゃ・・・・・・、だめだ・・・・・・」
寒さに震えるように、顔を小刻みに揺らす。
―――まさか
―――まさか