凍てつく虚空
↓キッチン
途中途中、何言か会話がなされたが、それも長くは続かず、いつもすぐに沈黙へと変換される。
しかも鶴井舞の話は遂に一言も出てこなかった。
皆が腫れものに触れるように、できるだけそっとしておきたい、思い出したくないと言う雰囲気がヒシヒシと伝わってくるようだった。
喉のつまりそうな沈黙だった。
嫌な圧迫感のある沈黙、そんなしじまを切り裂いたのはコップが床に叩きつけられる音だった。
そこにいる皆の視線がただ一点に集まった。
田子藍那さんだった。
勢いよく椅子を蹴飛ばし、口元を必死で抑えている。
口を押さえていたかと思ったら、全身が痙攣でも起こしたのかの様に小刻みに震えだし、そうかと思うと床に倒れこんでしまった。
その後、田子さんが動くことが亡くなった。
時間が止まったようだった。
目の前で、明らかに異質な時間が流れているにも関わらず、何一つ動けなかったのだ。
マリオネットはこんな気持ちなのだろうか、
こんなときにそんな馬鹿な事を考えてしまったのは、やはりこの空間の異常さが原因だったのであろうか。
そんな中、真っ先に動き出したのは、隣の席に座っていた浦澤さんだった。
誰よりも早く田子さんを抱え上げた。
それでも田子さんは相変わらずぐったりとしている。
「おい藍那! どうしたんだよ。何があったんだよ!」
叫びだった。
すぐそばに居るはずの友人に悲痛なまでの叫び、その声がどこまでも悲しく空しく響いた。
「眼を開けろよ。どうしたんだよおい!」
「・・・・・・毒を飲んだんじゃ」
背後からの声だった。
その声の主は未里さんだった。そのぽつりと零した言葉に私ははっとした。
再び田子さんの口元に眼をやる。
紅い一筋の液体が、口元からゆっくりと滴っている。
血だ。
毒を飲んだんだ。
瞬間的にそう悟った。
「水、誰か早く水を!」
「わ、解った。」
猪井田さんがわなわなと頷くと、その覚束ない足取りでキッチンに向かう。すぐその足で戻ってきて水の入ったコップを浦澤に渡す。
ひったくるようにコップを奪うと、田子さんの口の中にその水を流し込む。
流し込んでは吐きださせ、流し込んでは吐き出させる。
口の中に残った毒分を少しでも洗い流そうとしているのだろう、しかしそれが果たして効果があるのかは解らなかった。
恐らく私だけではないだろう。
私の隣に立っている理緒も、知尻さんも、そして田子さんを抱きかかえている浦澤さん自身もそう感じていたのかもしれない。
浦澤さんの必死の介抱も空しく、結局田子さんは再び動きを取り戻すことは無かった。
* * *
憔悴しきっていた。
ロビィに集まったメンバーは9人もいたが、発せられる言葉は全くのゼロだった。
皆が頭を抱え、腕に顔を埋め、涙にくれる者もいた。
私自身も同じだった。
もう、何がどうなっているのか解らないと言うのが、正直な感想だ。
頭の中が過剰な混乱状態で、そもそも何で混乱しているのかさえ解らない状態だった。
「どうなってるんだよ、これは・・・・・・。」
猪井田さんだった。
絞り出すような声だ。弱々しくいつもの張りが無い。
「舞に続いて、藍那もこんなことになるなんて」
「まさか、藍那も自殺って事は無いよね?」
知尻さんは、その小さな体をさらに小さくするように丸めながら呟く。
「藍那が自殺、まさか。」
しかしその言葉に説得力は無かった。
「・・・あの」
今度は霧さんだった。
おどおどと手を挙げて、皆の注目を集める。
「ん、どうかした。」
「実は、ついさっき、皆で食事をする前に、藍那からこんなものを渡されました。」
霧さんはそう言うと、ポケットから一枚の紙切れを取りだした。
代表して猪井田さんがそれを受け取る。
乱暴に4つに下り畳まれた白い用紙だ。そこにはこう書かれていた。
*
お前は追放者なる存在だ
お前の罪は死に値する
お前は今宵、神の名の下にその裁きを受けることだろう
*
無機質な文字の羅列が眼に飛び込んできた。
「何、これ」
真壁さんの問いに誰も応えようとしなかった。
それは誰もがその答えを知らなかった訳ではない。
寧ろ、その言葉の指し示す言葉が意味深であり、記憶の底を抉るものであったため、誰もが口を噤むしかなかったのだ。
―――追放者―――
その言葉の指し示すものに、心当たりがあった。
それは『田子藍那』を指し示す言葉であったのだ。
田子藍那は過去に事件を起こしたことがあったのだ。
鶴井舞の時とは違い、噂と言ったレベルでは無い。正真正銘の事件だったのだ。
私がこの劇団に入団する少し前、そう今から3年前から4年前であろうか、田子さんが『トワイライト』に入団して1年ほどしてからの事。
彼女は自殺したのだ。
正確にいえば『自殺しようとした』であるが。
ある日、彼女は自宅のアパートで大量の睡眠薬を飲んだ。
舞台の練習時間になっても顔を出さない田子を不審に思い、知尻さんがアパートを訪ねた。
合鍵を持っていたものの、当のアパートの部屋には鍵が掛かっていなかった。中をのぞいてみれば倒れこんでいた田子さんを見つけたのだと言う。
幸い発見が早かったため、すぐさま病院に担ぎ込まれた田子さんは事なきを得た。
しかし痛手を被ったのは劇団であった。
軌道に乗りかけていた劇団にとって、こう言った類のスキャンダルはご法度だった。
噂が噂を呼び、薬をやっていたのではないかとか、怪しい組織の報復にあったのでは、と言った根も葉もないデマが飛び交った。
大型劇団ならまだ各方面に融通がきいたのであろうが、こう言った少人数のこじんまりとした劇団にとっては、大打撃であった。
その影響は我が劇団だけでなく、他の無関係の劇団にまで及んだ。
日頃、交流もあり合同練習や合同公演を行っていた他の劇団にもその波紋は広がり、長い期間にわたり客足の遠のく事態を招いた。
それが後にマスコミの眼を引き、また今まで演劇に興味の無かった客層から注目が集まり、結果としてマイナスにはならなかったものの、こう言った事件を起こしたとこで、
田子藍那は、中小演劇団の間でこう呼ばれるようになった。
『追放者』と―――
勿論、田子藍那本人に面と向かってそう呼ぶ、と言う事ではない。
ただ私たちの劇団はそんなこと無いのだが、田子さんは鼻つまみになり、敬遠されるようになった。
他の劇団との合同公演の機会もめっきり減り、それまであった交流も途絶えた。
そう言うことも踏まえると、やはりどうしても今までと全く同様に接することも難しくなったのも事実だ。
霧さんや知尻さんは今までと同じように接してはいたが、他のメンバーとの眼に見えない亀裂が入ったように見えたのも、また事実だった。
そう、そんな事件が数年前に起きたという話を想起した。
今までマスコミや噂程度でした来たことの無い話であったが、この雰囲気を感じ取り改めて子の信ぴょう性を帯びた。
「霧、この紙どうしたの。何で持ってるの?」