凍てつく虚空
何か、『鶴井舞=自殺』と言い切りたい、そんな雰囲気だった。
そんな違和感を抱えたまま、私は反論を試みる。
「糸や針金を使ったんじゃありませんか?」
「糸と針金か。確かに密室トリックには定番だね。外から糸やら針金を鍵に引っ掛けて、その後引っ張る。張力によって外れていた鍵がすっぽりとはまる。そんな具合?」
「えぇ。可能性はあると思いますよ。」
「ふむ、また『可能性』、『確率』の話かい。じゃあ試してみたら。残念ながら糸や針金と言った類の代物は、一切通じないよ。」
「え?」
「やってみたよ私。だけどねダメだったよ。」
「それ本当ですか。」
「あぁ。試しに私たちの備品の中のタコ糸を使ってみようと思ったけどね、残念ながら糸を通す隙間と言うものが全くと言って良いほど無いのさ。
考えてみればここは寒冷地。設計者も出来る限り熱を逃がさないような構造になってるんだろうね。髪の毛ほどの隙間もない。」
「それで本当に失敗したんですか。もしかしたら3回に一回とか、5回に一回の割合でもできるかも。」
「私も一度失敗したからってこの説を棄却した訳じゃない。何回もやってみたさ。それこそ10回以上は試行錯誤してみたさ。でも結果は一緒だった。
無理やりドアと床の隙間に通して引っ張ってみようと思ったけど、いつも途中で切れちゃうんだ。」
私と怜は言葉も無かった。
浦澤さんも、視線を外し、少々申し訳なさそうに続けた。
「勿論、何百回何千回と続ければもしかしたら成功したかもしれない。ただその程度しかない成功率のトリックを使うかな。失敗すれば確実に痕跡は残るし、そもそも
何回も試す時間が無かったはずさ。昨夜、銃声らしき音がして、2階の廊下に皆が集まるまで、どんなに遅く見積もっても3分、いや2分だね。
その2分の間に、いつ成功するか解らない糸と針金のトリックを使う人が果たしているかどうか。私の率直な感想はノーだね。」
「・・・・・・なら窓ならどうです。ドアは廊下に接している分トリックの操作に時間が掛けられませんが、窓を外から閉める方法ならまだ考えられますよ。」
怜の前のめりの意見にも、浦澤さんは渋い顔を崩さない。
「う〜〜ん、確かに窓の諦閉についての実験はしてみなかったな。ただ、これはもっと厳しいと思うよ。」
「あら、どうしてですか。」
「窓を外部から閉めたのなら、その人物は当然窓から入ったんだよね、あぁ違うか。ドアから部屋の中に入ることもできたんだもんね。
でも最終的に窓から外に逃げたことには違いないな。と言う事はあの吹雪の中、外にに飛び出たって事になるね。
ふむ。これはちと、ってかかなり危険な行為だぜ。自殺行為に等しい。更にそこから糸や針金を使っても、さっきのドアと同様に成功率は決して高くないはず。
しかもこちらに限ってはやり直しがきかないときたもんだ。そんなドア以上に危険な方法を用いてこんなおかしな事をする人間なんていやしないよ。」
「そ・・・・・・、そうですよね。」
怜は静かに沈痛な面持ちで俯いた。
私も掛ける言葉が無かった。
嫌な沈黙が続いた。
ただ・・・
ただ私は一つ言いたかった。
もし仮に、今否定された糸や針金を用いたトリックが思いもよらない方法で実行されたところで・・・、
それを実行した人間は犯人に違いなく、
その犯人はこの山荘内に居る私たちの誰かである、と言う事である。
私はそんな言葉が喉のすぐそこまで出かかっていた。
しかし逆流したがる胃酸の酸っぱさと一緒に飲みこんだ。
恐らく浦澤さんもこの事に気付いているはずだ。
だからこそ言わなかったのだ。
怜ちゃんは必死で舞ちゃんが自殺ではなく殺人だと言いたいつもりなのであろうが、つまるところそれは私たちの中の誰かが犯人であると言う事と同義である。
そして浦澤さんはそれを必死で否定したかったのだろう。
途中で感じていた違和感も、もしかしたらそこにあったのではないだろうか。
私たちの中に殺人犯はいない、それを必死で証明しようとしたのだろう。
今回の議論の発端は、怜ちゃんでも浦澤さんでも無く自分だ。
自分で自分の言葉を恨めしく思った。
「―――ま、こんな会話はここでお開きにしよう。どうやら皆起きてきたみたいだ。」
浦澤さんの促す通り、階段からは猪井田さんたちが眠そうな目をしながら下りてきていた。
ウィスキーを舐めるように飲んだ。
* * *
ここは書斎兼図書室、そう聞いていた。
私はこの山荘の持ち主と言われている黒川影夫氏の書斎に来ていた。
話には聞いていたが、錚々たる部屋だった。学校の図書室など比較にならないほどの蔵書量、そして圧迫感。
どれもこれも年季の入った背表紙がこちらに向いていた。
一歩一歩奥地に進んでいくごとに、様々な文字が視野に入ってくる。
江戸山乱歩
鮎川哲也
泡坂妻夫
島田荘司
中井英夫
小栗虫太郎
夢野久作
有栖川有栖
綾行行人
・・・・・・
それもこれも日本人の名前のようだった。
まだ逆サイドを見れば、
アガサ・クリスティ
コナン・ドイル
ヴァン・ダイン
ディスクン・カー
エドガー・アラン・ポウ
エラリィ・クイーン
ガストン・ルルゥ
バロネス・オルツィ
・・・・・・
こちらは外国人だろう。
どれもこれも聞いたことのない人ばかりだったが、中にはその存在は知らなくとも聞いた経験はある名前もあった。
それのいずれも『ミステリ小説』で有名な人ばかりであった。
なるほど、黒川影夫氏が日本でも有名な小説家であるかどうかはさておき、かなりの愛読家であることはここからも読み取れる。
上から見下ろされるような本棚のトンネルを抜けると、テーブルが一脚ある。
小さめなフランス窓の正面に置かれた黒ずんだテーブルは、未だ主人の帰りを待つハチ公を連想させた。
抽斗の取っ手はボロボロになり、サイドテーブルの表面の塗装は所々剥げかけていた。
その歴戦を思わせるテーブルの上には、その一番左端に隙間が開けられた状態でスタンドにきちんと並べられた文庫本があった。
無論、その隙間には昨夜自分が読んだ『猛き月』のスペースだろう。
そしてその次に当たる本に、ゆっくりと手を伸ばした。
その表紙の真ん中には、普通のにこやかな笑みを浮かべた人間の顔が映っていた。
いかにもポスターやCMにでも出てきそうな、健康的な笑み、平和的な笑み。心が和やかになる笑み。
しかし、そうではなかった。
月光が、冊子の左から右に向かって順々に照らし出すに連れて、その表紙の表情が違ってきた。
一見すると、赤黒く塗られた背景に、不釣合いな人間の笑みが描かれているかと思ったが、
そこには顔の右半分が何ともおぞましい表情をした、黒い笑みを浮かべた人間の様な挿絵が入っていた。
顔の右半分が普通の人間の笑顔。
しかし、逆に顔の左半分は死神の真っ暗な骸骨の笑顔。
表情を作り出す筋肉は、全て削ぎ落とされた筈のしゃれこうべの顔。
けれども、その無表情な白骨の顔は、何処か笑みを浮かべているようにも見える。
笑みは笑みでも、優しさの詰まったような笑みではなかった。
見るからに邪悪な意思を含んだ笑顔が、一瞬にして心に焼き付いた
―――死神―――