凍てつく虚空
その表層には見てとることが出来なかったが、その内面には私たちの想像もできなかった闇を抱えていたのかもしれない。
自殺?
自殺?
本当に自殺?
彼女が本当に自殺?
あの子が自殺なんてする筈がない?
どうしてそう言い切れるの?
人の心なんて、そう簡単にのぞき見える訳が無いじゃない?
でももし本当に自殺じゃなかったとしたら?
殺人?
もしかして、殺人?
はっと空を見上げる。
厚い硝子と、宇宙空間を超えたそこには、さっき覗かせた時と同じ顔をした『月』が笑っている。
まるで、始めからこうなることを知っていたかのように、
そしてこれから起こるすべての事を知っているかのように傍観者を決めだして、ただケラケラ笑いながら自分たちを眺めている。
地球から30万km〜40万kmも離れた場所にあるはずなのに、ちょっと手を伸ばせば簡単に届きそうな、
遠くて近い『月』
昔からお母さんが眠る時に話してくれた昔話にも、理科の授業にも良く出てきた存在なはずなのに、実際には触ったことも降り立ったことも無い
近いのに遠い『月』、その存在は狂惜しいほどに心を震わせる。
寒気と熱気、
恐怖心と好奇心、
震えと疼き、
光と影、
表と裏、
明と暗、
1つの顔が常に持つ2つの相対する表情。
人はこの摩訶不思議な『月』と言う存在に、心を惹かれ、奪われ、ときめかせ、
だがしかし、本当はただ単にその『月』の魔力によって操られ踊らされるだけ、
その淡い2つ照明が、鷹梨心の闇を色濃く刻印する。
月明かりで、床にぼやけた人影が映る。
あたかもそれ自身が生命を持っているかのように、闇を流れる雲により揺らぐ月光によって影自身が、ダンスを踊る。
その新たな生命が、鷹梨の心の闇の部分を双映しているのか。それともこれも『月』の魔力なの?
かぶりを振る。
私はどうかしたのかもしれない。
こんな突飛な思考をすることなんて今まで無かったのに。
きっと疲れているんだ。
舞ちゃんの事件も重なって神経が参っているんだ、そうに違いない。
今日はもう休もう。
明日になれば、麓から迎えが来るはず。
そして東京に戻ってから、ゆっくりと考えよう。
そう自分に言い聞かせ、ベットの中にもぐった。
眼は冴えきっていたが、寝なくては潰れてしまう。
布団にもぐって眼を瞑るだけで良い。
そうそれだけで・・・。
ゆっくりと
ゆっくりと
意識は闇の中に沈んで行った。
* * *
クルクルと廻る私。
照明一つない舞台の上で、私は片足だけで廻って見せる。
観客はいない。
―――なんだか変な舞台だ。
私一人だけが舞台で奇妙な舞を披露する。
隣には大人しく座っている鶴井舞の姿。
―――舞ちゃん?
鶴井舞は虚ろな目をしながらこちらを見てくる。
その死んだような虚ろな目
―――どうしたの舞ちゃん?
呼びかけに何の反応も見せない。
私の声のはずなのに、何故か舞台に反響すらしない。
時に速く、時に緩慢な艶美な円舞。
徐々に鶴井舞に近づいていく。
―――ここは何処? どうして何も喋ってくれないの?
己の意思とは無関係に、二人の距離はどんどん近付いていく。
遂に鶴井の正面で踊りを止めると、不意に右手を高々と突き上げる。
―――なんなのこれは?
拱く様に腕を回す。そこには鈍色に輝くナイフが一本
―――ナイフ? どうして?
誰も答えてくれない問
観客不在の演目
そして制御不能な私
振り上げられた右手は、そのままの速度で振り下ろされる。
―――え、嘘!? 逃げて!
鶴井は依然として光を失った瞳をこちらに向ける。
―――止まって!
ナイフはそのまま鶴井舞の胸に突き刺さる。
深々と肉を食いちぎるように、深部へと到達する
紅い花弁が四方に飛び散り、鶴井はそのまま沼に沈んでいく。
何かを悟った様な
何かを憂んだ様な
―――もう止めて!!
私の声は霧散する。
私はそのまま無人の客席に礼をする
ただただ笑みを浮かべた満月があるだけだった。
「もうやめて!!」
次に意識が戻ったのは、自分の部屋だった。
木目調に白い塗料の塗られた、山荘の中の一室だった。
ここで漸く今までのが夢であったことに気付いた。
何とも奇妙な、後味の悪い夢。
時計を確認すると、7時を少し過ぎていたくらいであった。
およそ4時間。
身体の疲れとは反比例するように、精神の高ぶりが原因だった。
寝た気がしない、しかしこれからベットに潜っても寝れる気がしない。
仕方なく立ち上がる。
部屋を出れば、キンと冷えた空気が流れ込む。
その空気に紛れて嗅ぎ覚えのある紫煙の香り。
そのまま一階に下りてくると、ロビィには2人の先客がいた。
浦澤瞳と貴中怜だった。
暗澹たる窓ガラスを背に斜に構えているのは、劇団で唯一の愛煙家でもある浦澤瞳、
いつもは男勝りな豪胆さを前面に出した人のはずなのだが、その口元に短くなった煙草を咥えながら、暖炉を眺める。
一方の貴中もソファに腰をかけながら、同じく暖炉の方に目を向けていた。
特に何を話す訳でもなく、2人はそのゆっくりな時間の流れを共有していた。
自分の足音に気づいたのか、浦澤瞳がこちらに眼をくれる。
「あぁお早う。今朝は早いね。」
シニカルな笑みだった。その言葉にはやはりどこか疲労の色が出ていた。
「愛ちゃん、おはよう。」
「おはようございます。」
「昨日はよく寝れた・・・、訳無いか? 顔見れば解るよ。」
「えぇ。寝付いたのも遅かったし、それになんだか良く寝たって気がしなくて。」
「そりゃそうだ。昨晩にはあんなことがあったんだし。」
私はそうですね、と応えながらも視線を横の怜に向けていた。
あまりここで昨日の『鶴井舞事件』の事を話題に出したくなかったからだ。
貴中怜と鶴井舞は、日頃かとても仲が良かった。年齢も入団時期も近いことがあって、何かと一緒だった。
そんな貴中怜にとって、目の前で鶴井舞の死に関する話題は例え話題のベクトルを好意的な方向に向けたとしても、やはり憚られた。
「雪、止みませんね。」
怜だった。
自分から話題を変えようとしたのか、天気の話になった。
「県警の救助隊も2〜3日はこっちに来れないって言ってたしね。」
2〜3日。
その言葉の響きが残酷に響いた。
いくら予見していたからと言って、いざ現実に突き付けられると思わず眼が眩みそうだった
「全く。これじゃお家に帰えってゆっくり休めないな。私も、そしてあいつもね・・・」
そう言った浦澤瞳の視線は、山荘のすぐそばのかの小屋に向けられていた。
そう、鶴井舞の眠っているあの物置小屋だ。
「台風、地震、津波、雷、そして猛吹雪。科学技術が進歩したって言ったって、これらのどれを止められる? 所詮私らのできることなんざ、たかが知れてるんだよ。
できること言えば、それを受け止めること。解った?」
浦澤さんは、根元まで吸いつくした煙草の吸殻を暖炉の中に放り込んだ。
うまい具合に小枝や新聞紙に燃え移り、暖炉の中は見る見るうちにオレンジ色に染まっていった。
浦澤さんは、理緒と同じだ。