How to dissolve
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母は、彼女の訪問を事前に知っていた。彼女は私のハトコに当たるらしかった。愛想のいい笑顔で彼女に麦茶を出す母の姿を見て、叫び出しそうになった。後で、どうして言ってくれなかったの、と問うたが、忘れてたのよ、と一蹴され黙るしかなかった。
彼女は、野崎恵梨香と言った。別に名前を呼ぶつもり無かったから、知らなくても支障はなかったけれど。
恵梨香は夏休みを利用して自転車で一人旅をしているらしい。母は「偉いわねえ」なんて言っていたけど、一体何が偉いのか分からない。危険なだけじゃないか。
彼女は、母にだけは愛想がよかった。母に、というよりは私以外に、と言った方が正確だろう。おかげで私は、彼女の訪問を煙たがっているだけの心が狭い娘、という風に母に位置づけられてしまった。別に構わない。どうせ一週間だけのことなのだ。
その日から彼女と私は同じ部屋で生活することになった。彼女は日中はどこかに出かけていることが多かったから、顔を合わせることはなかったし、夜も私の方が早く寝ていたから、気を遣うようなことは殆どなかった。ただ時々、私だけの時間に彼女は入り込んできた。
ぼうっと、沈む夕日を見ていたときだった。私はいつものように、自動販売機の隣に座っていたのだ。俯いて、影と同化していくアスファルトを見つめていると、自販機から瓶の落ちる音がした。
「あんたって、幸せ者だよね」
見上げると、そこにいたのはやはり彼女だった。逆光なせいで、表情はよく見えない。私には、彼女が笑っているように思えて、口をゆがめた。
「あんたは、幸せじゃないの。そんなに自由にどこへでも行けて」
足下に絡みつく濃い影法師と目を合わせながら、そう言った。すると透明な液体が、私の頭から大量に伝ってきた。絶句して、躊躇していたことも忘れて彼女の目を見る。その目は、口は、まっすぐ私に向けられていて、まるで醜いものをあざ笑うかのように歪んでいた。
怒りよりも、何が起きたか分からなくてただ彼女を見つめていた。彼女も何を言うでもなく、私を見て笑っていた。
私は、耳の奥で何かが弾ける音を聞いた。シュワシュワと爽やかで、気持ちいい音を。頭は冷たい。
「馬鹿だねえ、あんた」
そこでようやく、私は彼女に炭酸水をぶっかけられたのだということに気づく。耳元だけではなく、そこかしこから聞こえる音は、二酸化炭素が水から逃げていく音だった。
「あたしが、自由だからぶらぶらしてると思ってんの?」
彼女は別に、私に悪いことをしたとは微塵も思ってないようだ。ようやく私はこのころになって、例の炭酸のようにふつふつと怒りが沸いてきた。彼女から見たら、大層恐ろしい顔をしていたことだろう。それでも、彼女の口角は上がったままだった。
「何、すんのよ」
「こぼしたのよ、炭酸水。見りゃ分かるでしょ」
悪びれる様子など一切感じさせない。私が叫び出しそうになる直前、彼女が口を開いた。
「炭酸。知ってるでしょ? H2CO3、弱酸。これって水に溶けにくいのよ、すごく。中学で習ったわよね?」
彼女は私を見て、一瞬違う笑い方をした。世の中の何もかもを諦めたような、そんな笑みを私に向けて、また前の表情に戻った。
「あたしは炭酸と一緒。家族の中だろうと自販機の横だろうと溶けこめるあんたが心底羨ましいわ。だから、あたしはこうやってぶらぶらしてるの」
彼女は私に、詳しい事情を語ることはなかった。私の中の怒りはとうに凍結してしまっていた。急に、これまでの彼女の態度が脆い虚勢なのではないかと思えてきた。
「探してるのよ、あたしの溶媒を」
彼女はそう言い切ると、空になった透明な瓶を自動販売機の脇にあるゴミ箱に投げ捨て、私の前から立ち去ろうとした。
「わ、私は……!」
私の目の前で、彼女が立ち止まった。気づいたらまた、私は地面を凝視していた。顎から滴った透明な液体が、現在進行形でアスファルトに染みを作っている。
「そんな、溶けこめてなんかないし。いつもぼやってしてるし、……私は恵梨香ちゃんが羨ましい。一人でもおどおどしてなくて、凛としてて、居場所なんて、どこにだって……」
初めて彼女の名前を呼んだな、などと思っているとまた、彼女の諦めたような笑いが降ってきた。
「ないから、こうしてるのよ。『一人で大丈夫よね?』って、大丈夫でもないのに言われるものだから、大丈夫になっちゃったってだけ。寂しい話よ」
耳の奥で、何かが弾ける音がする。さっきから、ずっと、鳴り止まない。
「もしかしたらって思ったけど、あんたも皆と同じだったみたいね。勝手に期待しておいて、失礼かもしれないけれど。この自転車独り旅はまだまだ続く! なんてね」
パチパチと、消えていく。これは、なんなのだろう。顔についた炭酸水を腕で拭うと、口元にあった少しがそのまま口に入ってしまった。それは気の抜けた、一切味のしない水だった。
「……明日、出ていくから。もう夏休みも半分終わったし、家にいるよりは楽しかったわ。迷惑掛けたね」
そういえば、彼女が来てもう一週間が経っていた。私はだんまりだった。とっくに日は落ちていて、陽と影の区別も、アスファルトの染みも判別できなくなっていた。それなのに、どうしてか彼女の足の輪郭だけはくっきりと見ることができた。私はまたそれを美しいと思ってしまった。きっとこの美しさは、彼女の孤独がもたらしたものだったのだろう。
彼女は足早に去っていった。そうしてからようやく私は顔を上げることができ、生温い夜空を見上げた。星の一つも見えないような、ただ黒が滲んだだけの空だった。私も後を追って家に戻り、風呂に入ってそのまま布団に入ったような気がする。
夏用のタオルケットを抱きしめるようにして、私は彼女のことをぼんやりと思い出していた。寝ようとしても、頭蓋骨の裏側に彼女の顔がべったりと張り付いて離れないのだ。あの笑いが、気味悪く私を見つめ続けている。私はそれを振り払うことができずにいた。
彼女には、本当に体の、心の休まる場所を持っていないのだろうか。溶け込むべき溶媒を、持ち得ないのだろうか。
彼女の炭酸の例え話は、的を得ていた。人間は溶質であり、溶媒だ。単体で生きるより、誰かと混ざりあって生きる方が遥かに楽なのだろう。意味もなく友と行くトイレも、家族と過ごす心安らぐ時間も、全く同じ、お互いを溶け合わせることで緊張を解しているのだ。
それを持たないとは、どれほどに辛いことなのだろう。何度も目に入ってきた彼女の際だった輪郭が、それの答えであるように思えた。それそのものが、彼女の難溶さを表していたのである。
私は何度も寝返りを打って、そしていつの間にか眠りに落ちていた。彼女は遂に私が寝るより早く、私の部屋に入ることはなかった。
作品名:How to dissolve 作家名:さと