How to dissolve
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朝、目を覚ましても、彼女はいなかった。これもいつものことで、彼女は私より早く起きて、居間にいるかどこかに出かけていくのだ。
私は彼女がもう出発してしまったのではないかと思って、少し冷やっとした。寝間着のまま、寝癖をつけたまま、居間に向かう。
彼女はそこには既にいなかった。元々、彼女がいるということを示すものはこの家には殆どなかった。人の心に溶け込めない彼女は、この家でも、誰に溶けることもなく過ごしたのだ。
ふと食卓に目をやると、一枚のメモ用紙が置いてあった。彼女の断りが、ほんの一言、書かれているだけだった。私は急に寂しくなって、玄関にかけていった。
そこにも、彼女のいた形跡は残っていなかった。まるで最初から何もなかったかのように、玄関には私と母の靴が並んで置いてある。それだけだった。
私は裸足のまま靴を履き、戸を開けた。もう彼女は行ってしまったのだろうと思っていたけれど、そうしないといけない気がしたのだ。
彼女は、そこにいた。いつものように炭酸水を飲んでいて、そして私を見て驚いたような表情をした。赤い自転車が、同じ色の自動販売機の前に停められていた。
「寝間着で外に出るって、どんな神経してんのよ。寝癖バッチリついてるし」
彼女が笑いながら言ったこの言葉に、私はいくらか救われた気がした。私も、情けなく笑いながら彼女に話しかけた。
「恵梨香ちゃん、こんなに早く行かなくてもいいのに。せめて朝ご飯だけでも……」
「あたし、朝ご飯は食べない派だからさ、これだけで充分」
そういって私の目の前で炭酸水のびんを振って見せた。その中では、二酸化炭素の泡がいくつも大気に混ざっていっていた。
「じゃあ、行くわ」
彼女が瓶に口を付け、残った炭酸水を一気にあおろうとした。私は無意識のうちに、彼女の手から瓶を奪い取り、私がそれをぐびっと飲み干した。
苦かった。昔おじさんに飲ませてもらった時より、ずっと苦い。ただの水なのに、どうせ二酸化炭素なんて出ていってしまうのに、それなのにたまらなく苦くて、私の目には涙が浮かんだ。
私は夏が好きだった。世界中が境界線に覆われている、そのきっぱりさが好きだった。だから私は、その美しさを持つ彼女が羨ましかった。しかし、さっき思い至ったのだ。その美しさは、溶けることを許されないものが必死に自分の場所を守ろうとした結果なのだということに。真夏に見る陽炎は、ギラギラと照りつける太陽光に縛られた無機物たちの、必死の叫びなのかもしれない。
彼女は唖然としている。当たり前か。
「私は、恵梨香ちゃんをかっこいいと思ってた。一人でなんでもできて、他の人とは違う、なんか綺麗な感じがして、本当に羨ましいと思ってた。……でも、恵梨香ちゃんが、そんな自分でいることがしんどいなら、かっこいい自分でいることが楽になることを邪魔してるんだったら、溶けちゃえばいいんだよ」
「……言ったでしょ、あたしが溶けれる場所なんて、なかったって」
「それなら恵梨香ちゃんが砂糖にでもなればいい。それが難しかったら、私が他の溶媒になればいい。……エーテル、とか」
彼女は吹き出していた。
「エーテルには溶けないわよ。学校で習わなかった?」
「じゃあ、分圧を上げてあげたら、もっと溶ける!」
彼女には彼女の生き方があって、私にも同じようにあるわけで、簡単にそんなことを言っていいとは思わなかった。自分にできる自信もなかったから。
「何ムキになってんのよ。あたしがどうなろうと、あんたには関係ないじゃない。あんたは今のままで充分周りに溶け込めてるんだから」
「そうだけど、……ここに座ってると、自分がいろんなものと一緒になってく気がするんだ。それがすごく心地よかった。だから、えっと……恵梨香ちゃん、また来なよ。それで、カフェオレでも飲みながらぼーっとしよう、うん、それがいい」
どもりながら言い切って彼女を見ると、やっぱり笑っていた。なんとなく自分が滑稽に思えて、私もへへ、と笑った。
「どうもありがとう。まあ、狭っ苦しい家に居るよりは楽しかったからね、暇だったら冬も遊びにくるよ。おばさんにもお世話になりましたって言っといて」
「うん」
彼女は自転車の車輪止めを上げて、軽やかに跨った。
「じゃ。……えっと、名前何だっけ?」
「清水夏帆、です。夏にマストの帆」
「夏か、あんたには似合わない名前ね」
私がぶすっとしたのを見て、彼女はまた笑った。
「冗談冗談、また多分来るよ。せいぜいあたしの性格をマイルドにする方法を考えといてよ、夏帆。期待してんだから」
「えっ? あ、うん!」
彼女は自転車を漕ぎだした。立ち漕ぎをする彼女の力が加わって、車輪はぐんぐんと加速する。住宅地だから、塀やら家やらが邪魔してすぐにその姿は見えなくなるだろう。分かっていてもその背中を見続けてしまうのだ。消える瞬間、赤い自転車が陽炎にくるまったように見えたような気がして、私はホッとした。
作品名:How to dissolve 作家名:さと