Today.
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姉は、前に訪れた時の姿と全く変わっていなかった。僕が大学に入る前から、ずっとこのままだ。髪の長さも、顔色も、何一つ良くなっても、衰えてもいない。いくつものパイプに繋がれ、何年も生き続けている。
僕と笹本さんが病室に入ると、貘は既に姉の枕元に立っていた。無言で、ただ姉を見下ろしている。
「彩香さんは、なんか変?」
オルゴールを手に持ったままの笹本さんが、貘に尋ねた。貘は顔を上げずに返事をする。
「なんか変なんだと思うけど、よく分かんねえ。でも確かに……こいつの時間は止まってる」
僕らの仮説は当たっていた。一瞬ぞわりと鳥肌が立って心臓が固まったが、すぐに元に戻った。鼻だけで深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
笹本さんも、貘も、神妙な顔をしていた。規則正しく音を鳴らす呼吸器が、この部屋にある音の全てだった。
「なあ、貘」
「なんだよ」
そう言って、ようやく貘は背後の僕らの方を見た。もう一度息を吸って、最後の用件を伝える。
「姉ちゃんの夢を、食わしてくれ」
一呼吸置いて、貘が顔をしかめる。
「はあ? 夢を食うのは俺の仕事だぞ」
「じゃあお前が食ってくれてもいい」
「やだよ、こんな得体のしれない奴の夢なんか」
「だったら僕に食わせろ。どうでもいいことなら、僕にやらせてくれてもいいじゃないか」
僕は拳を握った。歯がゆい。
僕の隣で、黙っていた笹本さんが口を開いた。
「……私たちの時間も止まってる。彩香さんがこうなった時から、私たちの時間だって止まってるの。あなたが夢を食べる貘なら、私たちを夢から覚ましてよ」
消え入りそうな声だった。姉が生きているのは嬉しい。でも姉の願いは叶えたい。板挟みになっていた感情が、ぐにゅりと押しつぶされたようだった。
この人外が現れて、確かに少し喜んだ自分がいた。姉に近づけたと、ほくそ笑んだのも覚えている。しかし、違う。こいつが現れて、僕らはどうしようもない現実を突きつけられたのだ。姉の願いを叶えなければなさない。そうして、前に進まなくてはならない。
これが夢だと言うならば、僕らこそ目を覚まさなくてはならないのだ。……もしかしたら、この貘も姉が呼び寄せたものなのかもしれない。僕らを姉から引き離すために。
「どうなるか、俺は知らないぞ」
貘がぼそりと呟いた。僕と笹本さんは、えっ、と口を開けている。彼から肯定の言葉が聞けるとは思っていなかったのだ。
「俺も、そっちの姉ちゃんが言ったみたいに、こんなややこしい奴がいるのは面倒なんだよ。人間がこれ以上変な発展したら困るからな。利害が一致したなら……俺は俺の利を舐め取るだけだ」
貘が一度姉を眺め、こちらに向き直る。面と向かうと、両手を僕と笹本さんに差し出してきた。
「何度も言うが、俺は何の保証もしないぜ。この女の夢の中で何かが解決するかも、お前らが気が触れないままでいるかも、記憶が正常かも」
「……まあ、その時はその時だよね、瞭くん」
「そうですね」
そう言って、僕らは貘の手を取った。自己中心的な使命感と、ほんの少しの胸の高鳴り。この時の僕を分解したら、それしか出てこなかったのではないだろうか。
笹本さんが、もう片方の手に持っていたオルゴールを、ベッドの横の棚に置いて、音を鳴らした。
「相変わらず、いい音してるなあ」
笹本さんが目を閉じたのを合図にするように、僕の視界はゆっくりと暗転した。