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Today.

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   ***

 違うのは、貘の奴がいないことと、オルゴールが砂時計に変わっていたこと、そして姉が窓の外を眺めていることだった。ここでは時間が、動いている。
「姉ちゃん……?」
 笹本さんも姉の名前を呼んでいたが、どちらも姉の耳には届いていないようだった。
 もう十年近くも前のことになるだろうか、最後に姉が目を開けているところを見たのは。これは姉の夢の中、そう分かっていても、心の底から沸き上がる感慨を押さえつけるのは容易ではなかった。
 瞬きをして、はためくカーテンのその奥を見つめる姉。できるなら、このままずっとここにいたい。ここに突っ立ったまま、ぼうっと姉を眺めていたい。きっと、笹本さんも大体同じことを思っているのだろう。
 しばらく、言葉もなく二人で石像のように立っていたと思う。先に口を開いたのは笹本さんだった。
「瞭くん、これ」
 笹本さんの指が示していたのは、例の砂時計だった。そうだ、きっとまたこいつのせいだろう。
 砂時計に近かった僕が、ひょいとそれを取り上げると、いきなり姉の顔がこちらを向いた。
「あれ……あれ、私、瞭くんと怜ちゃん?」
 心底驚いたようなその声が、自分の鼓膜を振るわせたのだと思うと目眩がした。視界の揺らぎがそのまま涙腺を刺激して、また視界がこぼれ落ちそうになった。
「彩香さん……これ」
 震える声の笹本さんが、ポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出した。姉の、最後の手紙だろう。何歩か歩み寄って、姉に手渡した。
 姉は紙を開いて、かつて自分が書いた文字を見返した。それから、困ったように笑って、泣きそうな顔になって言った。
「私、やっぱズルしちゃったからかな、うまくできなかったよ。砂時計、壊そうとしたんだけど、怖くて結局できずじまい。二人とも、こんな私を叱りに来たんだよね? ああ、でもこれは私の夢だもん、私の願望が現れただけか……」
 姉はうなだれていた。夢の中では自分の望むことしか起こらない。僕らがここに来たのも、そんな幻想だと思ったのだろう。
「そうだよ。私たちは、彩香さんが望んだから来た。彩香さんの願いを叶えに。そしたら、私たちの願いも叶うから」
 姉は驚いているようだった。自分の幻想が、あまりにもリアルに話し始めたからだろう。だから僕も、僕らがイレギュラーなのだと教えてやろうと思った。
「姉ちゃん、ほれ。姉ちゃんの願いは何? 叱ってほしいとかじゃないだろ、せっかくここまできたんだから、ちゃんと姉ちゃんの手伝いさせてくれよ」
 姉に向かって放り投げた砂時計が、姉の手の中に落ちた。
「怜ちゃんも、瞭も、本物?」
「正真正銘。少し遅れましたが」
 僕がにかっと笑ってやると、姉は今更実感が沸いたかのように、口に手を当てて目を見開いた。そして眉を下げて、感謝の言葉を口にした。
「幸せだなあ。私、こんなにいい弟と親友を持ったんだ。私は、幸せ者だね、本当に」
 姉は、一言一言を噛みしめるように発して、最後には涙を一筋こぼしていた。
 そうして、決意を口にするのだ。僕は、笹本さんは姉の言葉を遮ることはなかった。
「生きたいよ。二人と同じ時間をずっと一緒に、それで、ちゃんとした老衰でぽっくり逝きたかったなあ。こんなことになっちゃったけど、まだ間に合うよね? 希望はなくても、諦めないことくらい許してくれるよね?」
 僕は頷くことができなかった。真実なんてどこにあるかも分からないのに、姉に嘘をつくようで後ろめたかった。しかし僕の隣で、笹本さんは大きく頷いていた。彼女は彼女で他に後ろめたさがあったのだと思う。諦めないでここまで来たことが、きちんとハッピーエンドに繋がってほしいと、ただの自己満足ではないよと、僕以外の誰かに許されたかったのだろう。
「ね、こっち来て」
 姉は僕と笹本さんを手招きして、砂時計を握らせた。三人で、互いの体温を感じ取る。みんな等しく温度を持っていて、同じように震えていた。
「そういえば怜ちゃん、初めて喋ったとき、歯に青のり付いてたんだよ」
「嘘……そういうのははっきり言ってよ、いくら昔のことって言ったって、恥ずかしい」
「あと瞭は、もうちょっとかっこよくなると思ったんだけどなあ」
「すみませんでしたね! 研究に没頭しててそれどころじゃなかったんですよ!」
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、明日からかっこよくなるんだね」
「……そうだね」
 ひとしきり喋って息をつくと、耳の奥で雑音が響きだした。
 その瞬間に、姉が手を上げて、砂時計を投げ下ろす準備に入る。僕らの手も添えられたままで、改めて力を込める。
「楽しかったなあ」
 口角を上げた姉の顔に走馬灯が走った。初めて姉と会ったときのことを思い出していると、目の前の姉がまさにその頃の中学生の姿に変わっていた。アイロンのかかったセーラー服と、今より短い髪が、僕の眼前で笑っていた。驚いて笹本さんを見ると、笹本さんも中学生だった。同じセーラー服を着て、泣きそうな顔をして歯を食いしばっている。そうか、始まりはこの時だったのだ。僕らは姉と出会い、惹かれたのだった。それが今ここにいる理由だ。
 もう一度姉を見つめる。もう泣いてはいなかった。なんだか眩しくて、思わず目を細めてしまった。そして、耳の奥の雑音が大きくなってくると、音の一番底でオルゴールが流れていることに気がついた。これは、現実の足音なのだろうか。
「せーの!」
 姉のかけ声が響く。僕も、笹本さんも、思いの丈をぶつけるように砂時計に力を伝えた。
 ガヤガヤとオルゴールの澄んだ音が頭を掻き鳴らす。きっと、今度こそ大丈夫だろう。目の前の姉は笑っているのだ、もう不安に思うことはない。
 結局のところ、どちらが救われたのか分からない。でも多分、誰か一人でも救われたなら、僕らは望む「今日」を生きていけるのだろう。
 昨日を積み上げ明日を夢見る、そんな健全な今日を、この人たちと生きていきたい。それが叶うと、一瞬だけでも信じていたい。
 ガラスが粉々になる音が僕らを貫いた。「ありがとう」と呟いたのは、一体誰の声だったのだろうか。
作品名:Today. 作家名:さと