before Today.
***
ドアが鳴る。
「彩香さん、これ……どうなってるの?」
私を見つけて安心したのか、余計慌てたのか、彼女は病室に駆け込んできた。
ここまでの道中で、時間が止まった様子を見てきたのだろう。
「これ。この砂時計」
彼女に、横にした砂時計を見せた。普通だったら大層戸惑う状況だが、彼女は既に落ち着きを取り戻していた。
「これで、時間が止められるの?」
そして一つの疑問が生まれたようだ。
「じゃあどうして私だけが動けるんだろう」
私は、彼女が提げている紙袋を指差した。
「それのおかげだと思う」
袋がガサリと音を立てた。中に入っていたのは、古い、木でできたオルゴールだ。
「それも、これと一緒で、母さんが置いてったものなの。私にもよく分からないけど、なんか関わりがあるんだろうね」
「彩香さん、お母さんって……」
「だいぶ前にうちを出ていって、どこにいるかは分からない。それで、父さんが再婚して、瞭はその連れ子。そういえばごめんね、怜ちゃん。瞭に怒られたでしょ」
彼女に笑いかけてみる。どうしてこうも緊張するのだろうか。顔が強ばっていたら格好悪いな。
「やっぱりそうだったんだ。彼、全然年が離れてなかったからびっくりしたよ」
「そう、瞭ね。あの子一浪してるの。私の看病してたから……意味ないのに」
私は終始笑いながら喋っていたが、彼女はそうではなかった。
「ねえ、どうしてそんなに笑ってるの?」
凍り付く。
「私が変わったのかな。それに、何でそんなに悲しそうなの?」
ああ、どうしてだなんて、私が問いたいくらいだ。君はどうしてそんなにも変わらない。
「……そうじゃない? もう卒業してから六年も会ってないんだから。それに私は入院してるのよ? しかもあと数日の命だってお医者さんに言われてさ、それが悲しくないわけないじゃない」
鳥も鳴かない沈黙が訪れた。
「怜ちゃん、カーテンと窓を開けてくれる?」
彼女は無言で従ってくれた。
目の前に開けたのは、写真のような空だった。風が吹き込んでくることはないけれど、どこか心地いい。
「綺麗だね」
そう笑いかけると、彼女も微笑み返してくれた。
「そういえば、そのオルゴールの底、外れるの知ってた?」
「うん」
「紙と鉛筆とか、持ってたりしない? あったら貸してほしいんだけど……」
「ああ、それなら、この中に入れてあるから」
彼女はオルゴールを小さく振った。何かのぶつかり合う音がする。本当に、どこまで用意がいいのだろう。
彼女が、私の隣の椅子に座る。
「ねえ、彩香さん。いつ死ぬの?」
端的なその質問に、単語に、思わず体が震えた。
「……さあ」
声まで震えてはいないだろうか。ここまできても彼女に格好をつけたい自分が一番滑稽だ、と心の中で溜め息を吐く。
「今日、だとは思うけど。そんな、自分がいつ死ぬかなんて分かる人はいないよ」
「明日は?」
「え?」
何を言っているんだ。私は間違いなく、「今日」と言ったのに。
「明日は、もう生きてないの?」
「……多分ね」
ふう、と息をつく。
「彩香さんは……」
その言葉を遮る。
「明日って本当にあると思う?」
彼女はきょとんとしている。私が、そんなことを言い出すなんてらしくない、と思っているのだろう。
「私がどうこうっていう話じゃなくて、その存在のこと。だって、人は誰だって明日を生きることはできないじゃない。どんなに焦がれた『明日』だって、気づいたら今日よ。クリスマスの日に朝起きたら、いつの間にか枕元にあるプレゼントみたいにね」
一息つく。自分でもびっくりするほど、長い一息で喋っていた。さっきまでの息苦しさが嘘のようだ。目の前の彼女は、続きの言葉を聞きたくなさそうだったが、待っているようでもあった。
「怜ちゃんは、いつまでサンタを信じてた? 明日ってものも、サンタクロースと一緒で存在しないかもしれない。今日が毎日ポッと生まれてるだけかもしれない。……明日なんて、存在しないんじゃないかな」
親友は、泣きそうな顔をしている。
「どっちにしろ、私に明日はない。だから、どこを見たっていいじゃない」
どうして、ここにきて私と彼女を会わせたのだろう。偶然のいたずらにしても、悪趣味極まりない。私をそんな目で見ないでほしかった。私はもうずっと、「昨日」の箱に閉じこもっていたいんだ。
私は、命の期限というものを考えるようになって、とてもじゃないけど明日なんて見据えて生きていけはしなかった。かつて、彼女が私にあの存在を見たように、私も今、彼女に同じものを見ているのだ。
人よりもたった一日、早く終わりに突き当たる。ただそれだけのことなのに。
彼女は俯いて、口を開く。ここからではその表情を伺い知ることはできない。
「どうして、嘘ばっかり……。弟さん、忘れられてすごく悲しそうだったよ」
そうか、そこまで分かってたんだ。
「あれはさすがにやりすぎたかな。悪かったと思ってるよ」
彼女は答えない。
「怜ちゃん、お願いばかりで悪いけど、オルゴールを机に置いてくれない?」
無言で目の前に差し出されたオルゴールにゆっくりと触れる。音が変わっていた。実際に鳴らしたわけではないけれど、そうだと感じた。いつの間に、私の音は古ぼけてしまったのだろう。
もう充分だ。これ以上、言いたいことも、知りたいこともなかった。
「もうすぐ、時間だ」
私は横にしたままの砂時計を彼女に見せた。彼女はゆっくりと顔をあげた。
「うん。彩香さん、最後に会えてよかった」
その目は潤んでいるように見えた。そうあってほしいという私のただの願望なのかもしれないけれど。
椅子から立ち上がるというだけの、一つ一つのモーションがひどく美しい。もっとすばやく立ち去ってくれたらきっと、何も感じなかっただろうに。尾を引くような動きが私を燻ぶった。
彼女がかばんを持って向き直った。
「じゃあ、ね。彩香さん。お元気で」
本当は別れを全身で拒否したいのを、脳だけで抑えるのは大変だった。
「うん、非番なのにわざわざ来てくれてありがとうね」
彼女が背中を見せて、慌ててまたこちらを向いた。
「忘れてた! これを言おうと思ってたのに。彩香さん、誕生日おめでとう」
彼女がにこっと笑う。世界が丸ごと、滲む。
ずっと忘れてた。もう十年近くも前になるあの日のことが、めぐるましく蘇る。
冷めた目をしてる子だな。
どうして私なんかを観察してるんだろう?
私と、誕生日が一緒なんだ。
あ、歯に青のり付いてる。
不思議な子。
この子なら――。
「……ありがとう」
これが走馬灯か、などとぼんやり考えてしまった。六年も会っていなかっただなんて、嘘みたいに思える。遙か記憶の奥底に埋もれていた「昨日」たちが、私に寄り添ってくれているのを感じた。
ようやく、決心がついた。
「この砂時計、叩き割ってくれない?」
私は震える手で、怜ちゃんに砂時計を差し出した。こんなものは、もう誰も必要としていない。怜ちゃんは頷いた。
「あと、二人とも、夢を追ってね。自分の夢をさ、それで、手に入れてね。お願い」
作品名:before Today. 作家名:さと