before Today.
***
僕はその翌日も病院に向かい、滑りのいい引き戸を開けた。「来なければいけない」という使命感だけでここまで来た。あの「一時」が通り過ぎていることを願う。僕はなんて都合のいい人間なのだろう。昨日否定した言葉に今は泣きついている。
顔を上げるとそこにあったのは、
「瞭くん」
いつもと変わらない、しかしどこか後ろめたそうな姉の笑顔だった。
口をぽかんと開けたままで、涙がこぼれ落ちた。表情を変えないままにそれが流れていくのを感じていた。
「どうしたの……瞭くん?」
姉がベッドから立ち上がる。こちらに歩いてきた。少しおぼつかない足取りだが、気に掛けるほどではなく、安心した。
ボロボロと泣いている僕に向かって、ごめんね、ごめんね、と繰り返している。
「よかった、よかった……」
一体、何が良かったのだろう。僕が良かったのだろうか、姉が良かったのだろうか。まあ、一番は安堵だろう。
「姉ちゃん、俺のこと忘れてたんだぜ、昨日」
涙声の僕を見ながら、姉は困ったように笑った。
「そうだったみたいね。さっき、先生に聞いて知ったの。ごめんね瞭くん、私、昨日のこと覚えてないんだ……」
その後も姉は、口を開く度に「ごめん」と言った。姉の手元が視界に入り、何かが握られていることに気付いた。
あの砂時計だった。
「姉ちゃ……」
「ごめんね、瞭くん」
動きを止めた弟に向けて、謝罪の言葉を並べ続けた。私はベッドの横の机に砂時計を置く。
重力に従う器の中の粒を見ていると、時に逆らえない人間を見ているようでいらだちすら覚える。
ああ、なんてもどかしいんだろう。どんなに叫んだって、世界中の時計を壊したって時間は止まらない。
「あーあ、もう少しか……」
長めの寝間着から出た手を、握ったり開いたりしてみる。弟の、怒りが半分表れたまま止まっている表情を見て、笑ってみる。
砂が、落ちきった。
「……ん! まだそれ使ってんのかよ!」
時間を取り戻した世界がまた回り始める。
「ごめんね。でも、せっかくなら、もう少ししか生きられないならさ、私はこれを使いたい」
瞭が目を見開く。
「それ、誰から……」
「……、笹本、先生」
しまった。
「今日、聞いたの。私はいつまで生きられるんですかって。渋い顔して教えてくれたよ」
自嘲してみようとするが、上手くいかない。きっとこれは私の自業自得で、自分で嘲ることすら許されてはいないのだ。
瞭は怒りを露わにし、拳を震わせている。
「だからって、それを使っていいってことにはならない!」
「瞭くんはどうして使っちゃだめって言うの? 瞭くんはこれを使えないから? 時間が止まってる時に自分を見られるのが嫌だから?」
私が言葉を重ねる度に、さっきの威勢は衰えていく。それをわかっていて、私はとどめを刺した。
「そのことが、私と家族じゃないって証明してるから?」
私の弟は今にも泣き出しそうな顔をした。笑っていられる自分が心底恐ろしい。
「……そうだよ。それが使えるのはおばさんと姉ちゃんだけだもんな。でも、そんなことは」
「『そんなことは関係ない。時間を止めたところで姉ちゃんが偉いわけでもなんでもない』でしょ?」
瞭の言葉を防ぐ。そろそろ諦めるだろうか。しかし、ここで引き下がる弟でもないのを私は知っている。どんな言葉を並べたって、彼は私の弟だ。
「もしかしたらさ、姉ちゃんが病気になったのって、これのせいじゃないの?」
そうきたか。
「瞭くんらしくないね。そんな根拠もない話するなんて」
「でも、そうかもしれない」
「『かもしれない』で瞭くんの夢は叶う?」
弟は押し黙った。ひどく苦しそうな顔をしている。それを見るのが耐えられなくて、私は饒舌な振りをした。
「私がこれを使わずに生きてるパラレルワールドもあるかもしれない。そしたら比較もできるけど、その存在は分からないし、瞭くんにも分からない。だから、私がこれのせいでどうにかなったなんて、分からないんだ、思い込みすぎだよ」
自分でも暴論だと思う。井の中の蛙という表現を借りるならば、私は蛙ではない。井戸なのだ。外の世界の広さも、空の高さも知っている井戸だ。こんな言葉で彼を騙せるのだから向こうも相当参っているのだろう。
「帰りなよ。勉強しなくていいの?」
瞭が俯く。歯を食いしばっているのが僅かに見えた。そして、何も言わずに部屋を後にした。
これでいいんだ。
作品名:before Today. 作家名:さと