ビッグミリオン
『コイバ島・北東の港』 四月十日 午前四時
「あれかな? 白い船って」
ぜいぜいと息を弾ませながら、係留されている船を指さしたあと紫苑は草むらにひっくり返った。モヒカンとリンダたちも同じく大の字でひっくり返っている。
身体に降りかかる夜露でびしょ濡れになりながらも、やっと一行は港に到着した。深夜にもかかわらず、紫苑たちが潜んでいる藪からは武装した二名の歩哨の姿が見える。
「あいつらを何としねえ事には、船に近づけないぞ。よし、俺とそこのイケメンくんでやるか」
虫に食われた腕をぼりぼりと掻き毟りながら、あつしは紫苑に顔を向けた。
「いいけど、騒ぎを起こすのはまだ早いんじゃないかな。謙介さんたちが来るまでは動かない方がいいかもよ」
上体をむくっと起こし、後方の暗闇にしばらく目を凝らす。しかし、聞こえて来るのは鳥と獣の不気味な鳴き声ばかりで、人間のたてる足音などは全く聞こえてこない。
「謙介さんたち大丈夫かしら。私たちが逃げたすぐ後、後ろで銃声がしたわよね。……紫苑! やっぱり私戻るよ。戻って一緒に戦ってくる!」
唇はわなわなと震わせながら、あずさはびしょ濡れの身体で立ち上がった。もう既に泣いているのか袖で何度も目のあたりを拭っている。
「ダメだって。謙介さんの気持ちを無駄にするな。大丈夫、待っていればきっと来るよ。今まであの人は必ず戻って来たし、約束を破った事なんて一度も無かっただろ?」
安心させるためか、あずさの肩に優しく手を置いてゆっくりとまた座らせた。
「――うん、きっと大丈夫だよね」
ど、どすん!
不意に、鈍い音が暗闇に響いた。
音のした方には桟橋があったが、何故かそこにさっきまでいた歩哨の姿が無かった。ちょうど月の明かりも手伝って桟橋から浮かび上がってきたのは、倒れている二人の歩哨の姿だった。おまけに、そこから紫苑たちに向かってぶんぶんと手を振っている人物の姿も見える。
「まさか、あれって…… うお!? いつの間にか親父がいねえし!」
振り向いた場所には、やはり春樹の姿は無かった。
数分前、春樹は藪から抜け出して、気配を消しつつ桟橋に向かうと二人の首を絞めてちゃっかりと制圧していた。
「何か伝えてるぞ。えーと、なになに? おーいこっちこっち? 鍵も、ついて、いるから、早くこい?」
どうやら身体を張った大きなゼスチャーで、何かを伝えているようだ。確かに、暗闇に他にも敵が潜んでいるかもしれない以上、まだ大声は出せないのだろう。
「なぜか分かっちゃうのが悔しいけど、親父が勝手なことしてほんとごめん」
「……おまえの親父って、忍者か何かか? いろんな意味でただモンじゃねえな」
呆れ顔のあつしに見つめられて、小さく首を振った。
「あの人が勝手なのは昔からだよ。とにかく今のうちにエンジンがかかるか確かめておこう。みんな、走るぞ!」
紫苑の掛け声とともに、全員藪から一斉に飛び出した。クルーザーまでは三十メートルぐらいだ。
「親父、勝手なことすんなよ! 身体だって本調子じゃないんだろ?」
無事に船に乗り込むと、親父の身体を心配しているのか紫苑が厳しい声で怒りだした。
「まあまあ、結果的に船が手に入ったからいいじゃないか」
リーマンが船外機の燃料を確かめながらなだめた。燃料は十分に残っているとジェスチャーで伝える。
「悪かった。一刻でも早くこの島を出ないと、応援が来ると思ってな。レーダーよし、燃料よし。いつでも出発できるぞ」
「まだ待ってて! 出発するのは、謙介さんたちが戻って来てからよ」
船の手すりを掴み、身を乗り出しながらあずさが鋭く叫んだ。
「別に、いいんじゃねえの?」
その言葉を境に場の空気が凍り、一斉にあつしに視線が集まった。歪んだ光を発する眼を見て、あずさは身を固くする。
「いいよ、もう出発しちゃおうぜ。俺がこれを操縦する。みんなも銃声を聞いただろ? きっちり二発。あの時は急いで決めたけど、よく考えたらあいつらはGPSも持っていないんだぜ。たどり着けるはずがねえよ」
煙草の煙を鼻から吐き出しながら、デッキチェアにふんぞり返っている。
刹那、口を一文字に結んだ紫苑が、あつしにまっすぐ駆け寄ると胸倉を掴み、そのまま力任せに持ち上げた。ボタンがはじけ飛んだシャツの中からは、竜の刺青がちらっと顔を出している。
「よく聞け! 謙介さんたちがいなかったら、俺たちはここに辿り着くことさえできなかったかもしれないんだぞ。ふざけたことを言ってんじゃねえ!」
紫苑の顔は真っ赤に紅潮し、今にもこのまま殴りかかりそうだ。今までこんなに怒った彼を誰もみたことは無かった。
「やめろ、紫苑。冷静に考えれば、こいつの言う事も一理あると思う。だが、俺の息子が待つって言うんなら、俺は待つ。それが嫌なら、そこの刺青くんは先に行ってくれ。彼に着いて行きたい者はそのままこの船に残ればいい」
紫苑はあつしの顔をもう一度自分にぐっと近づけて睨むと、押し出すように手を離した。そのまま椅子に叩きつけられた格好で、あつしは床にペッと唾を吐く。
「では他に、この船に残る者は?」
春樹が全員をゆっくりと見廻す。リーマンが元から決まっていたかのようにさっと手を上げる。だが、彼と同じチームだったモヒカンとリンダは、デッキの隅っこで何やら相談をしているようだ。
「ちょっと聞きたいんだけど、このまま逃げてもワクチンは手に入らないよね? あつしさんたちはそれでもいいの?」
「いいも何も、このままだったら俺たちは捕まるか野たれ死ぬかだぜ? とにかくこの島から逃げて、どこか汚染された空気の入って来ねえ場所でこの騒ぎをやりすごす。おまえらには言って無かったが、どさくさに紛れて、シーズン2用のワクチンは手に入れてきたんだよ。そこのリーマンさんが素早く、ね」
「はあ? じゃあ、俺たちにもくれよ! なんで黙ってたんだよ!」
モヒカンの小さい瞳が、一瞬で怒りの色に染まる。
「ワクチンは三人分しか無い。俺とリーマンさんは既に森の中で注射済みだ。俺たちは密かに別のチームを組んでいたんだよ。ったく間抜けどもが。でもな、おまえには金がある。その大事にしまっている小切手と引きかえに、一人分だったら売ってやってもいいぞ」
あつしは腰からギラリと光る大型のナイフを取り出した。そして、それを目の前の丸い机にどかっと突き立てる。まさか、さっきの歩哨からこっそりと盗んだのであろうか。ひょっとしたらまだ、拳銃まで隠し持っているかもしれない。
「――いいよ、買う。だけど、俺とリンダはおまえらとは一緒に行かない。おまえはいっつも卑怯なことばかりしやがって」
「勝手にしろ。とっとと小切手を出せ」
モヒカンは唇を噛みしめながら、ポケットから小切手を出してあつしに渡した。いつか自分が助かる切り札になるかもしれないモノを、ここで手放してしまったのだ。
「ほら、これだ。大事に使えよ」
あつしから手渡された注射器には、うすい黄色の液体が入っていた。
「リンダ。何も言わずに、目を閉じて腕を出して」
優しい眼をして微笑むと、リンダの血管をすばやく探して腕に突き立てた。
「ちょっと、あんた何を」