ビッグミリオン
『ワシントン・ウイルス研究施設』 四月十日
「そこのじじいから血液を抜いて。必要なら致死量ぎりぎりまでやっちゃってもかまわないわ」
ここは、ガーフィールドパークの近くにある研究施設だ。遺伝子学研究では世界のトップクラスのスタッフを集まっているはずだったが、数名の著名な研究者には何故か連絡がとれなかった。
「しかし年齢を考慮しますと、この老人からこれ以上血を抜くのは危険です」
縁なしの眼鏡をかけた、顎の尖ったカナダ系の研究員が忠告する。エリザベートの力により、必要のない研究所職員は全てこの部屋から追い出されていた。
診察室の固いベッドには、鬼頭小次郎と紫苑のクローンが手足を拘束されたまま寝かされている。
「大丈夫よ。もしダメだったら若い方を使うから。まずじじいの血液を各部署に回して、全部署同時に研究を始めるのよ。分かってると思うけれど、ここであった事を口外したら……」
「それは承知しております。当施設には十分な資金を寄付して頂きましたので、あなたのご要望に添えるように全力を尽くします」
白い手袋を嵌めた指で眼鏡をずり上げる。白衣のネームプレートにはD・トーマスと書かれている。
「う、うう」
その時、鬼頭小次郎が苦しそうに呻いた。どうやら意識を一瞬取り戻したようだ。何か言いたげにエリザベートに焦点の定まらない目を合わせ、もぐもぐと口を動かした。
「なあに? 何か言い残すことでもあるの?」
冷酷な笑みを浮かべ、髪の毛をかきあげなら見下ろす。その表情は、誰が見ても完全に勝ち誇っている者の顔だった。
「血を、わしの血を抜いたな? た、頼む、殺さないでくれ。わしにはまだまだやる事があるのだ」
ビッグミリオンのトップにいた人間とは思えない、弱々しい声で訴え始めた。細い枯れ木のような腕を上げてエリザベート身体をつかもうとするが、すぐに力なくだらーんとベッドからぶら下がる。
「あら、命乞い? あなたのワンマン経営で、どれだけの人間が苦しんだと思うの? あなたを殺してやりたい人間は社内、社外含めてたっくさんいるわ。ふふ、最後は役にたって良かったじゃない。もうあきらめなさい」
ぶら下がった小次郎のしわしわの手を持ち上げると、ベッドの上に放り投げるように乱暴に戻した。
「い、いいのか? おまえのしようとしていることは、このままでは無駄に終わる。前に『鍵をかけた』と言ったじゃろ?」
「だから、なに?」
「よく考えてみろ。万能ワクチン=人間の中だったじゃろ? なら、『鍵穴』はどうかな?」
クイズを出す事自体は気分がいいのか、小次郎の口もとにはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「まさか鍵穴も……人間の中ってこと? ひょっとして、その人間の血液とワクチンを混合させることで、全ての人に使える安全な『万能ワクチン』が簡単にできるってことかしら」
「おまえは相変わらず頭が良いのう。特に目をかけて育ててきた甲斐があった。じゃが、まさかそのわしに対してここまでするとはな。……もう気付いているだろうが、その人間はわししか知らん」
「ふうん。――取り引きしようと言うのね。その人間を教えてくれる代わりに、命を助けろと」
「あと、紫苑を保護してくれ。孫は今も狙われている。あいつにはわしの跡を継がせなければならん。これは、鬼頭家の使命なのじゃから。なにより、可愛いわしの孫なんじゃ」
長い沈黙が流れた。エリザベートが頭の中でどんな計算をしているのかは、見た目では判断できない。
「つまり、あなたの血液と、その媒体の血液と合成した『モノ』があれば、それを複製するのは簡単ってことなのね?」
「その通り。両方とも少量の血液があれば可能だ。偉大なる父の言いつけどおりに、わしは『媒体』をある人間に隠した。ひとつ警告しよう。おまえは気づいていないかもしれないが、わしが失踪したいま、世界中に散ったわしの仲間が血眼になってわしを探しているじゃろう。ここが突き止められるのも時間の問題じゃ。表をよく警戒しておいたほうがいい。彼らの私兵は手段を選ばないし、軍隊並の武装を持っているぞ」
その言葉を聞いて、トーマスの顔はみるみる青白くなった。暴力とは無縁の世界で生きてきた彼には、少し刺激が強すぎたのかもしれない。
「ハッタリじゃなさそうね。でも、今この瞬間、あなたの命を握っているのはこの私なのよ」
「分かっとる。じゃがこの情報の価値は高いぞ」
エリザベートは手を振ってトーマスを追い払った。そして腕を組むと、しぶしぶという感じで肩を竦める。
「いいわ、取り引き成立よ。『媒体』の人間の名前を教えて」
老人の息のかかる距離まで耳を近づけ、一言も聞き逃すまいと目をつぶった。