ビッグミリオン
「博士、これを見て下さい。救世主の血液に含まれる抗体が、ウイルスを激しく攻撃しています。このウイルスはシーズン2のものですが、今まで見た事が無いようなスピードで死滅していきます」
所長は口をあんぐりと開けたまま、到着したばかりのエドワード博士に顕微鏡の前を空けた。
「これは……たぶん軍事用に作られたものじゃな。悪いが所長、次は核酸ハイブリダイゼーション検査にかけてくれたまえ」
代わりに顕微鏡を覗き込むエドワード博士の横顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。スタッフに慇懃な態度で迎えられ実験室に通されたのはいいが、彼はここ数日一睡もしていなかった。ニューハンプシャーにいる娘夫婦と、その孫の安全を確保するために奔走していたのだ。
隣の部屋には、まだぐっすりと眠り込んでいる紫苑の姿が、ガラス越しに見えている。この時既に彼の貴重な血液は、検査用に二百五十CCほど抜かれていた。一般的に、およそ二千CCの血液を失ったら、成人の場合致命的だと言われている。
「承知しました。しかし、これの製作者は天才的な頭脳を持っていたんでしょうね。他の器官に影響を及ぼす事も無く、見事に救世主の血液と共生してますから」
「うむ、これほどまでとはな。ところで、彼の血液型は調べたのかね?」
「はい、B型のプラスです。そのまま私に輸血できればいいのですが……」
所長も疲れているのか、片目を手でごしごし擦りながら答えた。
「なるほど、では君はB型ではないのじゃな? もしそうだとしても、おそらくGVHDのリスクは付いて回るじゃろう。しかし、B型の者がこの血液を輸血するメリットは計り知れんわな。ところで、君たちはいったい誰に輸血するつもりなのかね?」
博士の片方の白い眉毛がくいっと上がり、瞳が怪しく光った。
「輸血先は既に決まっています。明日この島に到着する予定の、VIPたちです」
「ほう。ではここでぶっちゃけた事を聞くが、仕事に対する報酬としてそれは私たちにも回ってくるのかね?」
「もちろんです。複製が成功した場合は優先的にお渡しいたします。ただ、あの男の血液はVIPたちに全て提供するので、博士にはこれを大事に使っていただきたい。これは極秘事項ですが、今日の時点で既に『空気感染らしき患者が出ている地域がある』と報告がありました。これからは一刻を争いますので、すぐに研究に入って下さい」
紫苑からさっき採取したばかりの血液パックが、博士の手に注意深く手渡された。
「なあ――君。君はわしに何か隠してないか? 噂ではこのワクチンの複製は不可能と聞いておるぞ。何より、この若者から血を一気に抜いてしまうと、失血死してしまう危険がある。そのVIPとやらに全部輸血してしまったら、オリジナルがもう手に入らなくなってしまうんじゃないのか?」
「分かっています。しかし、我々はやらなければならないんです。じゃないと家族が……」
この研究所の家族が人質になっているという意味だろうか、その顔は絶望と悲しみに沈んでいた。
「わしも権力者の横暴なやり方をこれまで見てきたが、この若者を殺すことには手は貸せん。この血液はこのままCDCに持ち帰って、そちらで研究させてもらう。悪く思わないでくれ」
「こ、困ります。世界には万能ワクチンの順番を待っている権力者たちが、まだ沢山いるのです。あの合衆国大統領もその一人なんです!」
ここに来てのエドワード博士の反乱に、所長の目はまるで麻薬患者のように泳いでいる。
「それはわしの知ったことではない。第一、今回アメリカ合衆国が、CDCに何を協力してくれたんじゃ? わしはわしのやり方でやらせてもらうよ」
血液パックを握りしめて後ろを向いた時、開いたドアにもたれかかった春樹が彼の進路を塞いだ。
「あー、そこのじいさんはさっさとここを出て自分の仕事をしてくれ。だが所長さん、あんたは違う。そこを一ミリたりとも動くなよ」
「おまえは……。死んだはずじゃなかったのか?」
目を見開いて後ろに後ずさりする。
「そうだな。ちょっとだけあの世を見てきたよ。だが、死ぬまぎわに息子に呼ばれたような気がしてね。あんたには残念だが、しぶとく戻ってきたんだ。殺したりはしないから今すぐに息子に会わせてくれ」
春樹の手には警備員から奪った拳銃が握られている。ドアにもたれて立っているのは、決して格好をつけるためでは無いようだ。握った拳銃がふらふらと上下するのを、気力で無理やり安定させているようにも見える。
「わ、分かった。隣のラボにいる。だが、会えたとしても結局は引き離されてしまうぞ。あんたが戦おうとしている相手は想像以上に強大なんだ」
この会話の途中で、博士はサンプルをポケットにねじ込むと無言で部屋から去って行った。
「忠告ありがとよ。でもな、どんな結果が待っていようと、親が子供を助けるのは本能なんだよ。さあ、両手を後ろに回してくれ」
手早く所長を縛り上げ、さるぐつわをかませる。そして隣の部屋のドアを所長から奪ったカードで開けた。
――そこには、いろいろな機械に繋がるチューブが刺さったままの紫苑が横になっていた。思ったより顔色は悪く見えない。
「おーい、紫苑。起きろ! せっかく親父が生き返って来たんだから、目を開けろっての」
身体に繋がるチューブをゆっくりと全て外し終えると、息子の身体を揺さぶる。
「う……うーん。いててて! 頭が超いてえ! あれ、ここは?」
目を擦りながら片手で後ろ頭をぽんぽんと叩く。
「おはよう! お父さんだよ」
にこにこしながら春樹が顔を近づけた。
「うお! 親父じゃねえか。てっめええええ! 俺に一言もなく勝手に離婚して出て行きやがって!」
春樹を認識したと同時に、座ったまま力いっぱい親父の腹に鉄拳をめりこませた。
「ぐほうっ! こ、こらこら、いきなり親になんてことするんだ。まさか反抗期なのか? けど、その分なら心配いらねーな。しっかし、大きくなったなあ、息子よ」
なおも殴り続けるパンチを、今度はひょいひょいと避けながら、最後には息子をがっしりと抱きしめた。
「よしよし、俺が悪かった。詳しいことは後ですべて話すが、今だけは……このままでいてくれるか?」
記憶の中での紫苑は、きっと昔の子供のままなのだろう。もう紫苑は殴ることをやめ、懐かしい親父のぬくもりを感じたのか大声で男泣きをしていた。
「親父……元気だったんだな。俺、いままで一回だって親父のこと忘れたことなんて無かったよ。母さんは何も言わないけど、きっと今も親父の帰りをずーと待ってる」
「そうか。あいつにも悪いことをした。俺もお前たちと一緒にいたかった。だが……。まあいい、今はここから逃げることが先決だ。よし、立てるか?」
「もちろん。親父こそふらふらじゃんか。年はとりたくないねえ」
歯並びの良い白い歯を見せて診察台を滑り降りた。二人とも目が赤くなり、少し腫れている。
「言うじゃねーか。今日はちょっと血が足りてねえだけだっての」
二人並ぶと、紫苑の方が頭一つでかい。息子はふらつく親父の肩を支え、拳銃を油断なく構えながら廊下を進んで行く。