ビッグミリオン
『コイバ島沖二十キロ地点・海上』 四月九日 二十三時三十分
「あれは……輸送ヘリです。例のCIAのエージェントが上陸した模様。衛星から合わせて確認願います」
確認後、隠密行動を課せられたアメリカ海軍のイージス艦から、ペンタゴンに通信が飛んだ。そのはるか頭上の宇宙空間には、世界各国の偵察衛星たちがこの島を監視している。
ペンタゴンさえも自由に動かす権力を有するこの組織の力は強大だった。アメリカ合衆国、ロシア、アジア圏などが有する軍隊は“名目上は全て”この島から遠ざけられた。これこそが、世界各国の最高責任者より強大な権力者が動いている証拠だ。
「『世界政府』や『戦争産業複合体』などは伝説だ」とまことしやかに今まで言われていたが、もしこの小さな島を取り囲む異様な力を知れば、人々はその存在を認めざるを得ないであろう。
「カエラ、準備は整っているか?」
ヘリから降りたブライアンは、サンダルに入った砂をぱたぱたと落としているカエラを振り返った。今日の彼女はぴったりしたジーンズを身に付け、ラフなTシャツを着こなしている。
「完璧よ。ところで、あの目つきの悪い人たちも一緒に行動するの?」
彼らの後方では大佐と呼ばれる男とその精鋭チーム八名が、慣れた様子でヘリから降りている。次の瞬間にはもう暗い森に素早く散らばっていく。全員が森林迷彩を纏い、赤外線スコープを装着しているようだ。全て降りたのを確認するのが早いか、すぐにヘリは爆音と砂埃をまき散らしながら飛び立っていった。
「いや、彼らはバックアップチームだ。私の指示があるまでスタンバイしてもらう。大佐ともども私に命を預けてくれたのだから信用していい。もちろん、ワクチン目当てだけどな」
黒いスーツを闇に溶け込ませたブライアンは、サンダルを片手にぶら下げたカエラの手を引き、研究所を目指して歩き出した。
「さっきエリザベートから電話があった。てっきり罵倒されるかと思ったが、どうやら向こうも万能ワクチンを手に入れたらしい。協力してくれたらワクチンを譲ると自信満々で言っていたよ」
「え? どうやって手に入れたのかしら?」
今は砂を踏みしめる二人の足音だけしか聞こえない。月が雲に隠れたいま、暗闇に沈んだ砂浜は不気味でさえあった。海に目を向けると、遠くに船舶の小さな明かりがぼんやりと見える。
「なんでも、紫苑くんのクローンが世界各地にいるんだってさ。そしてビッグミリオンの代表、鬼頭小次郎の身体にもワクチンが流れていたらしい。しかし……輸血できるのは決まった血液型、つまりB型のみらしいんだ」
「なんですって? わたしはB型じゃないわよ。どうするのよ」
「そこで、少しでも可能性のあるこの施設に来たわけだ。向こうには鬼頭小次郎とクローン、こちらはオリジナル。まあ、ギャンブルだな。だが、ここにはワクチン関係のスペシャリストが集まっている。エリザベートの方は、野球でいう二軍レベルしか集められないだろう。さらに、彼女が手に入れたワクチンは『融通が利かない』から一部にしか使い物にならん」
真っ黒な森からは、動物たちの不気味なカン高い声がひっきりなしに聞こえてくる。そのまま奥へ分け入った二人の目の前に、木立の間から白い建物が現れた。
「なるほどね。じゃあ、私たちはただワクチンの完成を待てばいいのね」
「いや、集めた情報によると、この施設には何か隠された目的があるみたいだ。最悪の場合は、篠崎紫苑の血液を一か八かまず君が輸血しろ。『違う血液型でも、まれに適合する可能性はある』とエリザベートは言っていたからな。もし適合したらそこから抗体を取り出してワクチンを作れば、君は大儲けできるじゃないか」
「まれにって……。じゃあ、ほとんどの人はダメってことじゃない」
カエラがあきれた様子で口を開けたと同時に、建物のドアが開き白衣を着た人物が現れた。
「ようこそ、お待ちしておりました。さあ、こちらにどうぞ」
ドアの脇には、ここのスタッフであろうか、体格のいい若者が二人立っている。案内されるまま応接室に通されると、満面の笑顔を作った所長がブライアンたちを待っていた。
同じ頃、研究所の裏手の壁に、ゆらゆらと人影が映って動いていた。
「よいしょ! こいつガタイがいいから、重いなあ。しかし所長も残酷だよな。冷凍庫で凍らしてから、まとめてサメのえさにしろとか。第一、まだひょっとしたら生きているかもしれないのに」
研究所の倉庫内にある巨大冷凍庫に、ひとりの男を乗せたストレッチャーが運び込まれようとしていた。白衣を着た若者は、その重いドアを開けて中の電気を点けた。冷凍庫のディスプレイの数字はマイナス十六℃を指している。
この部屋の隅に、マグロの様なものが数体転がっているのが見える。それは顔に霜が降り、かちかちに凍った実験体のなれの果てだった。眠ったまま苦しまずに死んだのであろうか、遺体たちの表情は総じて穏やかだ。
「何度来ても、ここは気味が悪いな。さっさと終わらせよう」
白い息に独り言を混ぜながら、ぐったりとした男の足を持って引きずり落とそうとする。
その瞬間!
紫苑の父、鬼頭春樹の目が「カッ!」と見開かれた。だが、若者は全くそれに気づいていないようだ。春樹は気配を消しながらむくっと起き上がると、後を向いて足を引っ張り続ける若者の首に、点滴のチューブを素早く二重に巻き付ける。
「ぐえええ! バカな! もう動くことはできないはず……」
信じられない表情のまま、その目がくるりと瞼に隠れた。かまわず、力任せに失禁するまで絞め続ける。
「バカ野郎! お、じ、さ、ん、パワーをナメるんじゃねえぞ!」
紫苑そっくりの目元をした春樹は、泡を吹いている若者の耳もとで呟く。血を大量に抜かれているにもかかわらず、その太い腕には血管がくっきりと浮き上がっていた。
完全に若者が気絶したことを確かめると、ふらつきながらもしっかりした動作で地面に足をつける。そして温度計の数字を適当に上げると、分厚いドアをロックした。
「まだ頭がガンガンするなあ。さーてと、まずどうするかって息子を助けないとな。まったく、とんだインチキ研究所だぜ」
壁に手をつきながらも、明かりの方向にしっかりとした足取りで歩きだす。少し背を丸めたその後ろ姿は、戦闘態勢に入った時の紫苑に瓜二つであった。そのまま倉庫から研究所の裏口に回ると守衛室があり、警備員がカメラのモニターを見ていた。
「はい一丁あがり、と」
春樹は猛禽類のようにそっと部屋に忍び込むと、後ろから若者の首に腕を回し気絶させる。
警備員の見ていたモニターには、スタイルの良い女性を連れたハンサムな男が、応接室で所長と話している様子がはっきりと映っている。だが春樹が興味を示したのは別のモニターだった。そこには、ストレッチャーに乗せられ、今まさに実験室に運び込まれる紫苑の姿があった。
「よおし、すぐに助けてやるからな。しっかし息が上がるわ。若い頃のようにはいかんなあ」