ビッグミリオン
「おいおい、黙って聞いてりゃ随分吹っかけてきたな。どうもあの野郎は信用できねえ。ちょっと締め上げてこようか?」
所長が部屋を出て行くと、あつしは肩を怒らせて立ち上がった。
「やめとけ。俺たちの命は彼らが握っている。金を払いさえすれば、最高の技術を提供してくれるはずだ。じきにエドワード博士も到着するし、騒ぎを起こしたくない」
「だけどよ、千四百万ドルってのは高すぎるだろ。足元見やがって! なあ、おまえも何か言ってやれよ」
モヒカンはリンダの隣で靴下の砂を払いながら、疲れきった顔をしてあつしと視線を合わせた。
「そうだね。でも所長はワクチンをたくさんに作るって言ってたじゃん? じゃあ前に約束した通り、香織さんの分も数に入れていいよね。うん……だったら俺はそれでいいよ。もともと信じられない幸運で掴んだ金だしさ」
香織という名前が出た瞬間、リンダの肩がぴくりと動いた事に彼は気づいていないようだ。
「おまえがいいなら、それでかまわねえよ。おーい、チームセブンさんよ、あんたらもこの話に乗れて良かったなあ」
あつしは出された紅茶を一気に飲み干すと、にやにやしながら椅子に深々と座り直した。
「なによ。もともと紫苑がいなければ、あんたたちは助かる見込みさえ無かったくせに」
ほっぺたを膨らませたあずさが立ち上がった瞬間に部屋のドアが開き、ぞろぞろとスタッフが入って来る。
「では、ご案内しますのでそれぞれの部屋にお入りください。これから順番に、感染の有無の検査とチップの摘出を行います。その際、シーズン2用のワクチンも与えます。もちろん感染していなければですが。あ、現時点で体調のすぐれない方は申し出て下さい」
スタッフの問いかけに手を上げる者はいない。例え体調が多少悪くても、自分の順番が後回しにされることを考えたら名乗らないのは当然の選択だった。
「紫苑、あずさ。俺たちは何があってもチームだからな。これをそっと隠し持ってろ。何かあったらすぐに連絡しろよ」
あつしたちのバンに放置されていた小型の無線機を、俺は無断で拝借してきていた。それをそっと二人に手渡し親指を立てる。
返事の代わりに紫苑はぐっと親指を立てた。綺麗な爪を部屋の灯りに光らせながら、あずさも同じように親指を立てた。
「所長、あの紫苑という男は本物ですかね? 父親と名乗るこの男には万能ワクチンのかけらも仕込まれて無かったので、僕にはどうにも信じられません」
助手の一人が、懐疑的な口調で所長にせまった。白衣を着た所長の近くにあるストレッチャーには、紫苑の父親が何本ものチューブに繋がれ横たわっていた。その顔は白く、まるで死人のようだ。
「検査で分かるだろうが、たぶん本物だろうな。――おっと、すこし血液を抜き過ぎてしまったかな。まあいい、もうこの男には用はない。後で例の所に運んで処理しなさい」
「分かりました。で、息子にはなんと?」
「そうだな、『会うのが怖くなったのか、部屋からいつの間にかいなくなっていた』とでも言っておけばいい。しかし、とんだ遠回りをしたもんだ。鬼頭小次郎という男、息子のこいつには万能ワクチンを仕込まないとはな。いや、この状態を見越してわざと仕込まなかったのか。『神の鉄槌』作戦の開始時期は孫の代と決まっていたのかもしれないね。いずれにしても、あの紫苑という男を絶対に逃がすな。もし逃がしたら――我々の命も無いと思え」
どのようなプレッシャーを抱えているのかは助手には分らないようだったが、所長のその顔は緊張で醜く歪んでいた。
「良かったらお聞かせください。大統領命令……なのですか?」
「いや、彼なんかよりもっと上の、君が想像すらできない権力だよ。地球上で一番恐ろしいヤツらだ。もちろんシーズン2用のワクチンも、彼らから提供されたものだ」
その言葉を聞いた助手の顔からはみるみる血の気が引いて行く。
「今のは聞かなかったことにしてくれよ。さて、仕事を片付るぞ。この場所はジャミング装置で守られていると言っても、大体の位置は追跡されているだろう。彼らのチップは迅速に処理したまえ」
助手は頷くと、すぐに踵を返し紫苑の個室をモニターしている端末の前に座る。そしてキーをすばやく叩くと、その部屋に透明なガスが流れ始める。しばらく変化は無かったが、二分後のモニターには床にうつ伏せに倒れている紫苑の姿が映っていた。
「では、これよりラボに運びます。エドワード博士が到着したらどうしますか?」
「血液の分析とワクチンの複製に協力してもらってくれ。全てが終わったら……この親父と同じように処理しろ。証拠はひとつも残してはいかん」
「はい。では予定どおり二十四時間後に実験を始めます」
「ああ、幸いモルモットはたくさん確保したからな」
にやりと唇の端を持ち上げると、所長は部屋を出て行った。
もっとよく注意していれば、謙介たちは気づいていたはずなのだ。研究者にしては目が鋭く、あまりにも体格のいいスタッフたちに。だが、彼らは今や蜘蛛の糸にからめとられるように、監禁に等しい状態で都合よく隔離されてしまった。
そして『世界の人間を救う鍵』となる紫苑の肉体は、一部の権力者の命令により今まさに切り刻まれようとしていた。
クリーンルームになっている個室に案内された俺は、今は特に何もすることも無く簡易ベッドに寝転んでいた。部屋の中に余計な装飾は一切ない。ベッドの寝心地は決して悪くないが、窓に鉄格子がはめられていてまるで刑務所にいるようだ。
食事はドアに開いた穴から差し入れられるらしい。どんな物でも注文できるとは言っていたが、はっきり言ってこれは体のいい監禁に等しかった。
「あいつ……あの時、他に何か言いたかったのかなあ」
白い天井を見上げながら、ポケットからそっと例の写真を取り出した。俺に肩車されたあずさが、白い歯を出して弾けるような笑顔で笑っている写真だ。これまでに何度も密かにとりだして見ていたが、写真の中のその笑顔を見ると、「リーダーとして、必ず無事に日本に連れて帰るぞ」という気力がもりもりと湧いてくるのだ。
しかし、いきなりここで気づく。本当はリーダーとしてなんかじゃない。――今までわざと気づかないようにしていた感情が、ぶ厚い殻を破ったように噴き出してきて、胸が熱く、苦しくなる。
今まで「おまえを必ず守る!」という言葉の中にそっと隠していたが、もう誤魔化すのはやめよう。
『俺は、あずさが好きなんだ』
たとえ万能ワクチンが間に合わなくて俺が死ぬことになっても、この気持ちだけは伝えておきたい。
このまま、大切な記憶を無くしてしまう前に……。