ビッグミリオン
三十分後――黒塗りの高級車は、ナンシーの住むブロックに入った所で停車した。幸いなことに後をつけてくるような怪しい車は見かけなかった。
「本当にありがとうございました! このご恩は一生忘れません!」
俺はオーナーに頭を下げ心からお礼を言った。
「がんばれよ!」という意味であろうか、彼は敬礼をひとつするとクラクションをぱーんと鳴らした。後部座席では彼の孫が、オーナーの真似をして小さな手で敬礼をしている。
見送った方向の逆に少し歩いて、白い外壁のマンションに入って行く。インターフォンを鳴らすと、張りつめたように警戒した声でナンシーが出た。彼女は元軍人である兄と一緒に住んでいるらしい。
「謙介だ。無事に着いたって伝えてくれ」
その瞬間、インターフォン越しに、部屋の中の歓声が漏れて聞こえて来た。
部屋に入ると、紫苑とあずさが笑顔で出迎えてくれた。小さな白いトイプードルも、俺の足元で飛び跳ねながら歓迎するように尻尾を振っている。部屋の中はオープンキッチンで間取りは驚くほど広い。部屋の主であるナンシーもバスルームから手を振ってくれたが、これから出かけるのか、化粧をしながら急いで支度をしている。
「無事で良かった! あいつらを上手く撒いたのね?」
あずさが少し半べそになりながら胸に飛び込んできた。紫苑もほっとした顔で俺の肩をぽんぽんと叩く。
「ああ、ゴールドマンと勝負した時のオーナーいただろ? 彼と偶然会って助けてもらったんだ」
「謙介さんは、ヘンな運があるからなあ。ところでその格好、セミをとりに行く時の子供みたいだよ」
紫苑の言葉で、俺の格好をまじまじと見た一同は大笑いした。それを横目にナンシーが手を振りながら横切って行く。もう出かけたのか、すぐ後に玄関のドアがバタンと閉まる音がした。
「とにかく急いで着替えたからなあ。まあ俺の服のセンスは置いといて……今から真面目な話をするぞ。いいか、俺たちを追いかけている組織はヘリまで飛ばしてきた。ヤツらは本気で『万能ワクチン』を手に入れるつもりだ。もし本当にCIAが相手なら、ここもいずれバレるだろう。それとな、街の様子が何かおかしくなってきている。感染者はどんどん増えているようだ」
あずさに冷たいにレモネードを渡され、一気に飲むとやっと人心地ついた。
「一刻も早くここから逃げないとだね。ところで謙介さん、あずさが話したい事があるってさ」
黄色い花が飾られた高いテーブルの周りに、三人が集まる。
「実はあたしね、紫苑にはもう話したんだけれど……」
ここであずさは、チームJACKPOTとのやり取りを全て話しだした。それを聞いている俺の顔はたぶん複雑な表情をしていたと思う。(やはりあつしたちだったか)と怒りがふつふつと湧いてきたが、今は冷静にならなければと判断して、ただ黙って聞いていた。
「リーマンは拳銃を持っていたし、あずさは俺たちを助けたかったんだって。だってあの時もし犯人が分かったら、謙介さんもすぐにリベンジに行っただろ?」
二人の視線が俺の言葉を待つように注がれている。
「――分かった。頑張ったな、あずさ」
俯いているその頭をくしゃくしゃと撫でる。すると、誘拐事件以来、初めて彼女は普通に笑顔を見せた。
「よく考えてみればさ、指名手配になったって今の状況とあんま変わらないじゃん。だから、そんな映像気にしなくてもいいよ」
紫苑がそう言うと安心したのか、今度はタガがはずれたように大粒の涙をぼろぼろと流し始めた。誘拐依頼、無理に何でもないという顔を作っていたが実は相当怖い体験だったのだろう。
「もう泣くなって。美人がだいなしだぞ。ところで、紫苑。ブライアンの言ってた『万能ワクチン』の件なんだけど」
「ああ、たぶん俺の血液に保管されているんじゃない? じゃなきゃアイツらがあんなに必死に追う必要がないからね。万能ってことはつまり、『オールシーズンに対応する』って事じゃないかな」
「なるほど。おまえの血液が人類を助けるって事か。という事は――ますますこのチャレンジ自体に何か目的があるように思えてきたよ。ところで、ナンシーはどこに出かけたんだ?」
俺は、慌ただしく出て行ったナンシーの表情も妙に気にかかっていた。
「お兄さんの職場まで行って、連れて帰ってくるそうだよ。このままだと飛行機が必要になるかもしれないからね。アイツらにもし今俺が捕まったら、もう謙介さんたちに二度と会えないだろうから」
「でも今日はもう八日だよな。あと一週間以内に、ワシントンの研究所に行かなければ。とりあえずフライトプランを見直さなければならないな」
紫苑は少し浮かない顔をしている。
「でも――逃げるのに必死で、金は全部ホテルに置いて来ちゃったからなあ。ナンシーや研究所に払う金が何にも無いよ。かと言って今ホテルに戻ったらアイツらの思うつぼだし」
「そうだな……。せっかく稼いだ金だけど諦めるしかないのか」
そう、逃げるのに必死で、金の事は全く考えていなかった。意気消沈する中、あずさがぴっと手を上げる。
「はーい、あずさ先生どぞー」
目を細めて煙草を吸いながら、少し投げやりに紫苑が指をさす。
「はい! みなさんは、アーノルドの存在をを忘れてると思います! だってあの人は浴室にいたし、ひょっとして生き残ってお金を持って逃げてるかもしれないわよ」
目をキラキラ輝かせて鼻を膨らませている。
「おいおい、俺はあいつを思いっきりブン殴っちゃったんだぜ? 持ってても返してくれるもんか」
「俺もテーブルを蹴って、痛い思いさせちゃったしなあ……。しかも、DOLLの遺体を見つけた時に、俺たちが殺したと勘違いするかもしれないな」
命を守るためとは言え、彼にはひどいことをしたと思う。
「ものは試し、電話してみよ!」
あまり乗り気じゃない様子で、紫苑が携帯を取りだしアーノルドに電話をかける。
出たぞ! と俺たちに目配せしてからスピーカーにする。
「俺、紫苑だけど、さっきは殴っちゃってごめんな。大丈夫だったか?」
「大丈夫です。あなたたちに対しては怒ってないですよ。浴室にいたので自分の命は助かりましたし。でも……私はDOLLを守れなかった。遺体も持ち去られたようで、最後の別れすら言えなかった! 銃声がした時には意識はもう戻っていたので、声だけは聞こえていたんです。ブライアンめ、絶対にあいつを許さない!」
重い沈黙が部屋を支配する。鼻をすする音がどこからともなく聞こえてきた。
「――ところで何の用ですか?」
「もし知ってたらでいいんだけど、ホテルに残していた金がどうなっていたか教えてくれ」
あの時、彼女を守ることなど誰にもできなかっただろう。俺は気まずい思いだったが無理に声を絞り出した。
すると、しばらく電話口でごそごそという音が続く。
「これのことですか? 何かの役に立つと思って、そのまま持って帰りました。数えてませんが、三百万ドル以上ありそうですね」
このやりとりを聞いて、緊張からかあずさはミネラルウォーターをがぶ飲みしている。
「その通りだ。もし良かったら、それを返してくれないか?」
また無言の時間だ。
「ええ、いいですよ。ただし条件が二つあります」