ビッグミリオン
「銃を捨て……え?」
考えていたカッコいいセリフを言う寸前に、目の端で何かが動いた。
「だああああああああ!!」
一瞬、何が起こったか分からなかった。視界が突然奪われ、部屋の中が白一色になると、たまらず俺たちは咳き込む。奥の部屋から人影が飛び込んできて、ぎゅっと俺の手をつかんだ。デコレーションされた爪……これは?
あずさだ!
見上げた勇気だった。たぶん、隠れて今までのやりとりをこっそり聞いていたのだろう。消火器を手に持ち、妙な雄叫びを上げながら勇敢にも単独で飛び込んできたのだ。
ただ、その時俺は煙の中で恐ろしい物をちらっと見てしまった。彼女の眼はそう、例えるなら、虫に向かって殺虫剤を夢中で噴射する時の『母ちゃんの眼』をしていた。
「ごほっ! ごほっ!」
視界を失ったブライアンたちは、目を押さえながら咳き込んでいる。今度はそこに集中的に消火器の粉を浴びせながら、俺たちは走って部屋を飛び出した。
逃げるついでに廊下にある非常ベルのボタンを押すと、すぐにけたたましいベルが鳴り響いた。エレベーターが非常停止してしまう前にロビーに降りなければならない!
何とかエレベーターに飛び込む事ができた。すぐに紫苑がナンシーに電話をかける。
「今、追いかけられてるんだ! え? 違うって、バカ、女にじゃないよ! 今から君の家に行くから、三人かくまってくれ」
ロビーに着くと、ホテルのスタッフが客に緊急時の誘導をしているのが見える。今から横切ろうとしている空間は、逃げ惑う人々でごったがえしていた。その人ごみに混じりロビーを抜けると、脇の駐車場には二台のカワサキが、待ち焦がれたように主人を待っていた。
「そっちに乗れ、あずさ! 紫苑は俺と上着を取り換えてくれ」
俺はヘルメットをあずさに強引にかぶせる。紫苑と服を交換すると、顔が分からない様にサングラスをかけバンダナを頭に巻く。
「多少汗臭いが我慢しろよ。何があってもそのメカニックくんにつかまってるんだぞ!」
あずさはひらりと紫苑のバイクの後ろにまたがり、親指を立てて頷く。そして同時にエンジンをかける。
命を吹き込まれた二頭の鉄の馬が、大通りに頭を向けて仲良く並んだ。
「ナンシーの家は知ってるよね? そこで落ち合おう。謙介さん……この音聞こえる?」
紫苑の言葉に耳を澄ますと、遠くから複数のパトカーのサイレンが聞こえてくる。
「ああ、聞こえる。よし、二手に別れよう。俺は追っ手を引きつけるから、あずさを頼むぞ!」
振り返ると、ロビーからブライアンたちが出てきてこちらを指さし、無線でどこかに指示を出している。
二人を先に行かせ、俺はブライアンが近づくのを待った。ミラー越しに拳銃を抜くのが見えた瞬間、後輪を滑らせながら紫苑とは反対の方向に急発進した。
ここからナンシーの家まで飛ばせば十五分ぐらいだ。だが、今後ろにはパトカーではなく、なぜか高性能の黒いバンが三台追尾してくる。
「あのタイプの車に乗るのは……映画では悪党か、政府の組織って相場が決まってるんだよなあ」
運転手の顔は見えないが、ブライアンはそのどれか一台に乗って指揮をとっているのだろう。まだまだ時間を稼がなければ。ただ、幸運な事に、どうやら紫苑たちの逃げた方角には追っ手は行っていない様子だった。
もう、あたりには夕闇が迫っていた。ヘッドライトをつけずになるべく細い道を選びながら、右に左にくねくねとバンから逃げ回る。バイザー越しに見える街は静まり返り、ここがベガスの裏通りとは思えない程だ。ごみ箱は気ままに散乱し、いつもいる派手な姿の客引きたちの姿も見えない。
一つ角を曲がると、そのままフリーモント・ストリート・エクスペリエンス(年末には豪華なクリスマスツリーが飾られる、四百二十メートルのハイテクアーケード)を、人がいない事をいいことに風のように疾走する。それが効果があったのかは分からないが、いつの間にか俺を追いかけるバンは一台に減っていた。
アーケードを抜けると、広い通りに出た。巡回中のパトカーとこの時すれ違ったが、あまりにもこちらが速かったか、全然追いかけてくる気配さえなかった。運転席の若い警官が、あきれた顔で口笛を吹く様子まで、今の俺にははっきりと見えている。
しかし、ここでちょっと良くない事態が発生した。気配を感じて上空を見上げると、ヘリがいつの間にか俺を追尾しているではないか。車だったらほぼ逃げ切れないのだが……。案の定、赤外線カメラで捕捉されているのかヘリの追尾は執拗だった。
「このままじゃ道を封鎖されるか、車を強引に当てられて転倒させられるパターンじゃん」
ヘルメットの中でにやっと笑う。俺は昔から、こういうピンチになればなるほど何か楽しくなってしまう悪い癖があった。それが今、むくむくと頭をもたげて来るのを感じる。
そのまま赤信号を無視して交差点を曲がると、目の前に派手な看板のショッピングモールを見つけた。とっさに地下駐車場に鼻面を向け潜り込む。
だが運の悪い事に、この時間は食料を買占めるために客が押しかけているのか、地下駐車場に入る車の長い列ができていた。カワサキを右に左に振り強引に車をよけながら、やっと駐輪場までたどり着く。まだ火照っているエンジンからは、むわっとした熱気とタイヤの焦げる匂いが立ち上り、何故かそれが俺の心を妙に落ち着かせる。
「チッ」
エンジンを切った瞬間、何か舌打ちが聞こえたような気がしてふと振りかえった。
少し離れたスペースからゴツいハーレーにまたがったバイカー野郎たちが、何故かサングラス越しにこちらを威嚇するような眼で睨んでいる。そいつらの足元に転がっている男はケンカで倒れたのか、例の感染で倒れたのか、ビクビクとけいれんを繰り返していた。だが、俺はかまわずショッピングモールに飛び込む。今はこんなヤツらを相手にしている場合ではない。
最初に目についた店は、ちょうど水着やアロハシャツなどを売っているテナントだった。この非常時に水着などは売れないのか、食料フロア以外はだいたい休業しているようだ。それをいいことに目についたアロハシャツと短パンを商品棚から取り、できるだけすばやく着替えた。そして百ドル札をカウンターに放り投げ、買い物客に紛れるためにエレベーターの上りボタンを押す。
ブライアンたちは、あの駐車場の渋滞を見たら徒歩でここに向かって来るだろう。もし応援が来たら、このショッピングモールごと封鎖してくるかもしれない。まだ、俺を紫苑と間違えているなら十分にあり得る話だ。
待ちかねたエレベーターのドアが開くと、どこかで見た紳士が玉のような汗をかきながら出てきた。上品な服を着た男の子を連れ、山盛りの商品が入った二台のカートを重そうに押している。
私服だと分かりにくいが、確かこの人は……。
「あの、失礼ですが、カジノのオーナーですよね?」
一瞬首を傾げたが、向こうもすぐに俺に気付いたようだ。