ビッグミリオン
紫苑とあずさの肩を軽く叩いて頷くと、照明が強く当たっているルーレットテーブルに俺は一歩踏み出す。それと同時に室内の他のテーブルの照明は全て落とされた。
「謙介さん、ヤツは一投目を必ず入れてくると思う。このギャラリーの中で自分の腕を誇示したいはずだよ」
耳元で素早く紫苑がささやいた。あずさも目で頷く。
「そうだな。だが逆に一投目を外して、プレッシャーの中で残り三回をキメるって考えているかも知れないぞ。そっちの方が成功した時の満足度は高いだろ。一から三投目まで俺たちが我慢して見(ケン)にまわれば自動的に勝ちだが、絶対にそれは無い。勝負は一、二、三投目のどれかだ」
いつの間にか俺たちの周りをギャラリーが何重にも取り囲んでいた。最前列は後ろに手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいて来ている。観客が多すぎて室内の温度が上がったためか、婦人方の香水の香りに混じって外国人特有の汗臭さまでがすぐそこに感じられた。
さらにその輪の外側にはDOLLとアーノルドの顔もあった。会場のボルテージにつられたのか他の観客と同じように興奮して顔が紅潮しているように見える。
渡された契約書にサインが終わったと同時に、ずっと流れていた音楽も止まった。それが合図のようにゴールドマンは立ち上がり、高級そうなスーツの上着を脱ぐとスタッフに放り投げた。その顔はひきしまり、不運の付け入る隙は全く無いように見える。
彼がテーブルに着くと会場の熱気は最高潮に達し、室内の温度もさらにジリジリと上がってきているように感じた。
「よし、俺はお前たちを信じる。二投目か三投目に全てを賭けよう。一投目を当てられなくてもチャンスはあるからな」
ふとあずさの顔を見た。不安そうに俺の顔をじっと見つめている。
「安心しろ。絶対に勝ってやる」と頭をぽんぽんと叩くと、緊張が解れたのか彼女はぱっと顔を輝かせ親指を立てた。そして、俺は首をこきこきと鳴らしながら勝負のテーブルに駆け上がって行く。この肩には大金もそうだが、『セブン』の運命も背負っていることを自覚しながら。
「お待たせしました! ケースの中身を確認したところ、きっかり七十五万ドルありました。これより勝負を始めます。では、一投目お願いします! 挑戦者は『外してくる』と思ったら手を上げて下さい。なお、私のコール後のPast-Posting(後張り)は無条件で挑戦者の負けとなりますのでご注意を」
一投目開始のベルが、俺の神経を逆なでするように鳴り響いた。
ゴールドマンは慣れた手つきで運命のホイールをゆっくりと回し出す。そして流れるような動作でホイールと反対向きに白いボールを投げ入れる。何万投と投げたであろうそのフォームは洗練され、芸術的でさえあった。
いま、賽は投げられたのだ!
この瞬間、全員の目線がルーレットに集中する。ここから支配人の『ノー・モア・ベット』のコールをが終わるまでに俺の手が上がらなければ、この一ゲーム目はスルーとなる。
「謙介さん――ここは我慢だよ」
紫苑が後ろからそっと呟く。分かっている。ここで手を上げる訳にはいかない。
「ノー・モア・ベット!」
支配人の鋭い声が静寂を切り裂き、同時に賭け終了のベルの音が二回鳴る。
やがてボールの回る「シャアアアアア!」という音がだんだん小さくなってくると、会場中が息を飲んで白いボールの行方を見守った。ゴールドマンは投げ終わるとくるりと背中を見せ、余裕のポーズなのか慣れたしぐさで葉巻の口を切っている。
カッ、カッ、カコン
ボールがポケットに飛び込んだ時の小気味の良い音が響く。
「ウオオオオオオオオ!!」
耳をつんざくような歓声が沸いた。白いボールが、元からそこにあったかのように『00』に収まっていた。読みは当たった。後ろの二人に気付かれないように、俺はそっと胸を撫で下ろす。
ゴールドマンは汗ひとつかかず、葉巻を咥えたまま両手を挙げてニコニコしている。その表情から(何を驚いている。当然だろ?)と言っているように見えた。
彼の澄ました顔と余裕のある態度を見て、逆に全身の毛穴が開き汗が噴き出してくるのを感じた。
「なんと! 彼は一投目から入れてきました。次はどうするのか。果たして挑戦者の手は上がるのか。注目の第二投目に入ります!」
ほっとしたのも束の間、急かすようにスタートのベルが鳴る。ここか、この次で外して来るに違いない。紫苑とあずさに『ここで行くぞ』と目配せした。
ビシュッ!
音さえ後から聞こえるような速さで、白いボールが手から弾丸のように弾かれた。
「まずいかも。さっきとボールの持ち方が全く同じだった」
あずさが鋭く耳打ちする。しかし、ここで心を曲げてはいけない。
――俺は“天まで届け”と高々と手を上げた。今までの人生で、こんなぴしっとした手の上げ方をした事は無かったかもしれない程に。
「ノー・モア・ベット!」
支配人の声にも気合いが入り、更に熱がこもる。そしてボールは回転を弱めながら、運命のポケットを探して飛び込んでいく。
「ヒュウウウ」
今度は――歓声ではなくため息が聞こえてくる。
ボールは一投目と同じように『00』のポケットに収まっていた。
「エークセレント!! まさにミスターパーフェクト! 挑戦者には残念ですが、この時点で『ほぼ』ゴールドマンの勝利です。後は三投目か四投目のどちらかをわざと外せば無敗伝説は継続ですね。ここからは消化試合ですが、皆さまごゆっくりお楽しみ下さい」
支配人は勝利を確信したのか満面の笑みで会場を見廻すと、ゴールドマンにこっそりと親指を立てた。
「顔をあげて見届けろ。まだ勝負はついていない」
下を向いて唇を噛んでいるあずさに、力強く声を掛けた。
「ヤツがプレッシャーに負けることは無いだろうね。でも……勝負は何が起こるか分からないよ」
同じようにあずさを励ます紫苑の声にも力がこもる。
そして三投目のベルが鳴る。観客があからさまに俺たちを“憐みの表情”で見ているのが分かる。
「どうやら決まったわね。あなたは先に帰ってベイブの位置を特定しときなさい」
DOLLはアーノルドにそう言うと、カクテルウェイトレスのトレイから赤ワインをすっと受け取る。
弛緩した雰囲気の会場に、形だけの「ノー・モア・ベット」の声が響き渡る。くやしいが、俺にはもう手を上げる権利は無い。
カッコオオオン!
またも当然のように『00』のポケットにボールは踊るように飛び込んだ。まるで身をよじるかのようにポケット内で素早く動き回ったが、結局そのまま諦めたように動きを止めた。
「もう言葉もありません! 三連続同じポケットに入れるとは。あ、写真はまだご遠慮下さい。まだ一応、四投目が残っておりますので」
支配人は形だけの注意を観客に行う。しかし、その顔は完全に勝利を確信しているように見える。俺たちの七十五万ドルを二人でどう分けるのかは知らないが、この時点で九割九分その札束に手が届いていた。