ビッグミリオン
同じ頃、『チーム9』は帰路の飛行機の中にいた。
「帰りはせめてファーストクラスにしてくれ」とマイクが言って聞かないため、将太はしぶしぶファーストクラスを予約した。身体のデカいジェフは二席を占領するので、実質四人分の航空料金を支払う事になる。
「しかし、あっという間だったなあ。今回の旅で一番良かった事は、君やジェフとこうして知り合えた事だよ」
腕を組みうんうんと頷きながら、将太は隣で雑誌を読んでいるマイクをつつく。
「そうだな。俺も東洋人のおチビさんと知り合えて良かった。ステイツに帰ってもショータの事は忘れないよ。俺も今回の旅で分かった事がある。人の金を使いまくるって責任が無くて気分がいいと思っていたけど、やはり自分の金じゃないと何かこう、気持ちがこもらないよな」
ふしくれだった指で雑誌を戻すと、ぐっと背伸びをした。成田に到着するまでまだまだ時間がかかりそうだ。
その時、窓側の二席を占領していたジェフが、寝返りをうった拍子にぱかっと目を開けた。
「う〜ん。なあ、メシはまだか? 俺、腹減ったよ」
起きるなりこの発言だ。将太とマイクは顔を見合わせてくすくす笑った。
「三十分前に食べただろ? ショータのデザートも横取りしてたじゃないか。昨日からおまえは寝てるか食うかだな」
通路に身を乗り出すようにして、女性の胴回りもありそうなジェフの太ももを軽くこづく。
「食べたっけ? ……それはそうと、まだイギリスに着かないのか?」
不思議そうな顔をしながらきょろきょろ周りを見回している。
「おいおい、寝ぼけてんのか? もう俺たちはすっからかんになって帰国中だよ。今は日本に向かっているところだ」
「にっぽん?」
「まだ寝ぼけてやがる。デカい図体してるくせに子供みたいなヤツだなあ」
しかし、次の言葉に二人はおろか近くの乗客も一斉に凍りつく。
「寝ぼけてなんかいねえよ、バカにしやがって! 馴れ馴れしく話しかけるんじゃねえ! 大体おまえら誰なんだよ!」
その眼は真剣で、冗談を言ってるようには見えない。憎しみというより、不安の色が濃く伺える。
突然の大声にファーストクラスの乗客が一斉にジェフを見ていた。最前列のスーツ姿の男が急に立ち上がり、いぶかしげな視線をこちらに向けながら客室を出て行くのが見える。たぶんCAを呼びに行ったのだろう。
「ガアアアアアア!」
恐竜のような男が暴れ出し、椅子がぎしぎしと軋む。
まず将太が自分に掛けていた毛布をはぎ取ると、暴れ続けるジェフの身体に飛び掛かった。よく見るとジェフのその姿は、まるで子供が駄々をこねているようだ。当然だが、将太クラスの体重では抑え切れるものではない。瞬く間に吹っ飛ばされて行く。次にマイクと他の乗客が力を合わせて、前の座席を蹴りながら暴れるジェフに一斉に飛び掛かる。
「お客様! どうなされましたか?」
四人のCAがマニュアル通りの笑顔で駆けつけたが、二百キロ近いジェフの巨体がタコのように蠢いているのを見ると、さすがにその顔はひきつって腰が引けている。
「一体どうしちまったんだよ! 俺だよジェフ! 正気に戻ってくれ!」
歯を食いしばりながらマイクが叫ぶ。取り押さえるのに協力した、体格のいい若者の顔からは鼻血が噴き出している。マイクも拳が当たるのもかまわず懸命に体重をかけ押さえつける。
「マミー?」
最後に空中に向かって問いかけると、ついにジェフの黒目は上の瞼に隠れた。口からは大量の泡を吹き、頭を掻きむしったせいかその手は血まみれであった。押さえつけた勇者たちもどこかしらケガをしてうずくまっている。
「通して下さい! 私は医者です!」
緊急機内放送で呼ばれたのか、医者と名乗る若い女性が近づいて来た。彼女の為に乗客は協力して道を開ける。
「こいつ、親友なんですよ。急に俺の顔を忘れたみたいなんです。どうか助けてやって下さい!」
眼を真っ赤にしたマイクは医者に説明しながら、袖で涙を拭いていた。兄弟同然に過ごしてきた友が、突然自分を忘れてしまったのだから無理もない。
「忘れた? 親友であるあなたの顔を忘れたのね? 今まで何か兆候はあったの?」
首の脈を看ながら振り返り、マイクに優しく聞き直す。しかし、彼女の顔は何故か少しひきつっていた。
「いえ、今日までは、いや何年も一緒でしたがこんな事は初めてです。こいつが俺の顔を忘れるなんでありえません!」
「それは悪いニュースね。……すみません! 機内電話をお借りできますか? あと、この急病人に触った方は手をしっかり洗ったあと、必ずうがいをして下さい。洗う前は目を擦らず、念のため口にも触らないように!」
何かを思い出したかのように女性医師は大声で指示を出した。その切迫した表情に『ただ事ではない』と感じた乗客たちは我先にとトイレへ殺到する。
「いったい――こいつに何が起こったんですか?」
電話のありかを聞いてCAに案内されて行く彼女を、マイクはとっさに呼び止める。
「はっきり断言はできないけれど、伝染病の可能性があるわ。ニュースを見てないの?」
そう言い残すと、彼女はぱたぱたと走っていった。その後は意外なほど静かな時が流れる。
それもそのはずだ。
マイクと将太の周りはおろか、この客室から乗客の姿がみごとに『消えて』いた。