ビッグミリオン
『日本・東京』 四月六日
『チーム2』のまゆみと美香はまだバカンスを楽しんでいた。だが旅行の間に、貴子の勝手なチップ取り出しによって失格になっていることは知る由もなかった。
貴子は新宿の病院にいた。チップを取りだし、弟の病室に通いだしてもう四日が経つ。難病である『特発性拡張型心筋症』を患った弟のためにできることは、もう心臓移植しか残されていなかった。この病気は移植を待つ間入院しなければならないが、入院費用がかなりかかってしまう。滞っていた入院費や、手術料などを払うと千三百万などあっという間に消えることになる。
この日も貴子は化粧もせず、通いなれた病院の受付に行った。手には果物だろうか、大きな籠を抱えている。
「おはようございます。いつも大変ですね」
顔なじみになった看護師の女性が笑顔で出迎える。しかしいつもと違う様子にその笑顔が戸惑いに変わって行く。面会者名の記入欄に名前を書く場所があるのだが、貴子の手がそこでしばらく止まっていた。
「いかがなされました? いつも通りでいいですよ」
とまどった顔をしている彼女に優しく声をかける。
「だめなの……名前……思い出せない!」
頭を抱えたはずみで果物の籠が床に落ちて、メロンや葡萄が音もなく散らばっていく。
「ちょっと、大丈夫ですか? すぐに先生を呼んできます」
看護師は細かく震える貴子に肩を貸すと、待合室の椅子に座らせた。その目はうつろで、だらしなく開いた口からはよだれが止まらない。
「先生! こちらです!」
医師と共に戻って来た看護士の白衣には、いつの間にか筋状の血痕がついていた。
それは――貴子が髪の毛をかきむしった時に、毛髪ごと引っこ抜いてしまった皮膚の傷から出た血だった。
「あの人は、突然こうなったのかね?」
何かに怯えたような表情で初老の医師が問いかけた。妙なことに、椅子でうなだれている貴子の様子を少し離れた所から観察する。
「はい、受付で『自分の名前が思い出せない』とつぶやいた後にこうなりました」
「昨日までは普通だったんだろ? これは……まさか」
医師の顔がみるみる青ざめていく。
「先生?」
「今朝FAXで届いた緊急連絡そのままの症状じゃないか! その内容は『新種の伝染病の可能性が高いので、そのような患者が来たら完全に隔離せよ』との通達だ。。昨日まで健康な人が突然記憶を失ってしまうらしい。よし、すぐにその患者を隔離してくれ」
大きな声で指示を出した割には、医師の腰はひけていた。
「そうだ! 言い忘れていたが、警察にも通報しといてくれたまえ」
そう言い残すとサンダルが脱げそうなほどの速さで、小走りに奥に消えていった。
FAXの最後の行は次の一文で締めくくられている。
【この病気を発症した患者は、やがて全て死亡すると思われる。治療法は無い】