ビッグミリオン
『ジョージ・ワシントン』で大佐と合流したブライアンは、ヘリから降ろされた日本人女性の病室にいた。無駄な装飾を一切省いた機能的な医務室で、まどかは軍医の治療を受けていた。
「目が覚めたかい? もう大丈夫だよ。足のケガは三週間もすれば回復するだろう。肋骨にもひびが入っていたが、幸い骨折はしていないようだ」
角刈りの軍医は包帯の巻かれたまどかの足を見ながら、手元のレントゲン写真をぱんっと叩いた。
「……ここは?」
レントゲン写真と軍医を交互に見ながら彼女が尋ねた。その足元には白いスーツを着た男が椅子に座っている。
「やあ。ここは最新の病院だよ。――まあ少し揺れるがね。悪いが君、少し外してくれ」
椅子に腰かけ、ベッドの柵にぴかぴかの皮靴を乗せていたブライアンが軍医にウインクした。
「さて、まどか君。少し説明が必要だろう。覚えているか分からないが、君と一緒にバイクで逃亡した男の遺体は、いま日本の警察が検死をしている。そして君の仲間だったちびっこギャングたちはもう処分したから、君はもう安全だ」
「いやああああ!!」
突然、まどかは火が着いたように暴れだし、その振動でベッドが激しく軋む。悲惨な記憶がはっきりと蘇ったのだろうか、叫びながら髪の毛を掻き毟っている。ブライアンはまどかが落ち着くまで、たっぷりと時間をかけて待った。
「いいかい? 残念だが君の恋人はもう帰ってこない。だが、君は奇跡的に助かったしお腹の赤ちゃんも無事だ。これは幸運と思わないといけない。さて――ここからが大事な話だ。君は“ケースの中にあった紙幣に触った”か?」
立ち上がり彼女のベッドの頭まで行くと、息がかかる距離まで近づきぐっと覗き込んだ。ハンサムな顔は引き締まり、何かを探るようにまどかの眼を見つめている。
「あなたがスタートの時に渡したケースの話? あのお金には触っていないわ。タケシはあの後触っていたかもしれないけれど」
目をつぶると、長い時間考えてから答えた。
「そうか。君が妊娠してるいう記録は無かったから念のためにな。ところで……。私と取り引きしないか?」
「取り引き?」
キョトンとした目でブライアンを見上げる。
「そうだ。君は大金が欲しくて、このチャレンジに応募したはずだ。まず、君のチップはここに運んできてすぐに、特殊な方法で取り出された。これは追跡される恐れがあるからだ。実はね、首のチップにはある病気から身体を守る機能があるんだ」
ブライアンはベッドに腰かけ、まどかに背を向けると自分の後頭部を親指で指した。
「病気って何ですか?」
怯えた目でブライアンの後姿を見つめる。
「非常に――そう、非常に恐ろしい病気だ。さっき紙幣に触ったか聞いただろ? 触るだけでは問題ないが、その手で口や粘膜などに触れたらたちまち感染する。もちろん感染者の唾液や体液からも同じように感染してしまう」
「HIVみたいなものですか?」
「まあ、治療法が無いのは同じだが、HIVだったら最悪でも自分の人生の思い出と共に死ねる。だが、この病気は『自分でも知らないうちに』死んでしまうんだ。さらに、感染した、または感染させた自覚が全くないという点ではこちらのがはるかに恐ろしいかもしれない。生活圏に影のように忍びこみ家庭や友人、恋人という関係を本人も気づかないうちに根幹から破壊する。例えば――もし君が既に感染していたとしたら、スタート時に私と会ったことさえも覚えていないだろうね」
「思い出が無くなるなんて、冗談じゃないわ」
まどかの顔色はみるみる青ざめていく。
「では、それを踏まえた所でそろそろ取り引きの話に戻ろう。君は自分の都合でチップを取り出したのでは無いから、ルール上では君のご家族にこちらが五百万ドルを支払う決まりだ。だが、君はギャングたちと一緒に爆発で死んだ事にしてしまえば、我々さえトボケれば支払う義務はない。ひとつ聞くが、病気の話を聞かない方が良かったと思うか?」
「いいえ。治療法が無いのなら、予防するしかないですよね。知って良かったと思います。でも、今の話で、タケシたちを殺したのはあなたたちだって事は確信したわ」
「そうか、なら話は早い。実は、私はビッグミリオンのスタッフであると同時に、アメリカ政府の人間なんだ。ここに着いてすぐに君のチップは取り出され、『汚れた紙幣』と共に政府の研究室に送られた。彼らの仕事は成分をただちに分析して、多くの人を救うワクチンを作ることだ」
一度言葉を切り、再びまどかにその整った顔を近づける。
「よく聞いてくれ。五百万ドルはビッグミリオングループの代わりに、アメリカ政府からご両親に支払おう。だが――その代わりに君の赤ちゃんを貰えないだろうか。その子の身体にはワクチンを含んだ君の血液を介して『新しい抗体』が作られている可能性があるんだ」
「新しい抗体ですって?」
新しい命を守るように、とっさに両手で自分のお腹に手を当てた。
「そうだ。妊娠している参加者がいるという情報を聞いたとたんに、アメリカ政府は強い興味を示した。これは貴重な研究対象になると考えたんだろう。さあ、このへんで君も両親に親孝行したらどうかな。実際この話は親孝行するというレベルではない。長い目で見れば両親、いや人類を救う手助けができるかもしれないんだ」
ブライアンの眼が少し狂信的な光を帯びだす。しかし、まどかにすぐ答えが出せるわけが無い。
「さらにもうひとつ。最新のDNA検査の結果では、その子の父親はバイクの彼ではなかった」
部屋に長い沈黙と、重い空気が流れる。
「もし断ったら?」
乾いた唇から声を絞り出し、負けずに強い目で見返す。彼女は悲しみというよりも、何かに非常に腹を立てているように見える。
「金も貰えないし、君が暴れようが何しようが結局赤ん坊だけが取り出されるだろう。私の権限でその時に麻酔を使わせない事もできる。政府は“赤ん坊にしか興味を示していない”んだ。だがさっきの話を飲めば、新しいワクチンが完成したら真っ先に君と、君の家族にも与えることも約束しよう。私は君も、そして人類も救いたいのだよ。どうだ? 悪い話じゃないだろう」
「……分かったわ。でも、公式な文書にして下さい。あなたがFBIでもCIAでも構わないけど、口約束はできない」
「もちろんだ。君はまだ若いのに、何が大事かを知っている。頭が下がるよ」
ブライアンはウインクをひとつすると、上機嫌で部屋を出て行った。
そのまま大股で廊下を歩いて行くと、軍医の私室をノックする。
「話はついた。すぐに彼女を眠らせて母体から取り出し、胎児の脳を調べろ。時間がない」
「はい、早速取り掛かります。しかし……よく納得しましたね」
軍医は不思議な顔をしている。
「彼女はまだビッグミリオングループの持ち物だから、無茶はできない。金で納得しそうだったが、もうひと押しした。お腹の子は愛する恋人の子供じゃないって嘘をね」
艦内禁煙だが、葉巻に火をつけながらつまらなそうに言い捨てた。
「検査なんてしていないじゃないですか! 人道的に私は――」