ビッグミリオン
『羽田空港・到着ロビー』 四月五日
「何とか間に合ったかな」
市ヶ谷秀男は、家族を迎えに第二旅客ターミナルに来ていた。
嫁の実家は鹿児島にあり、先ほど受け取ったメールの文面からも楽しい休日だったことが伺われた。今日は天候も申し分なく、ANA3779便【定刻】と電光掲示板にも書いてある。
春休みも終わるという事もあって、到着ロビーは人でごったがえしていた。
仕事のせいで今回は嫁の実家に一緒に行けなかったが、「せめて迎えにだけは行かせてくれ」と会社を半ば強引に早退してきた。久しぶりに会う愛する家族の到着は約三十分後だ。きっと妻と娘のリュックは、お土産と思い出でぱんぱんに膨らんでいることだろう。
ロビーは各地のお土産を抱えた家族やカップルなどがひしめき合い、ベンチには座る所も見つからない。少し離れた所ではテレビ局が帰省ラッシュの様子を撮影に来ていた。座る事はあきらめた様子で、人ごみを見てためいきをつく。
表示が【遅延】とこの瞬間に変わっていたが、メール着信に気を取られそれに全く気付いていないようだ。
ぱぱなにかへんこのひこうき
メールの画面にはそう書いてあった。
「この分だと、定刻通りだな」
ANA3779便の機長が、満足そうに副操縦士の田辺に声を掛けた。コックピットにある自動操縦を示すランプは点灯し、現在順調な飛行をしている事が分かる。
今日は快晴だから、一部の乗客には雄大な富士山の姿もはっきり見えるに違いない。
「機長、前方に気流の乱れが発生していると思われます。アナウンスを入れますか?」
他機からの無線を受け取った田辺は、前方を向いたまま尋ねた。彼の目には青い空が問題なくどこまでも無限に広がっているように映っていた。しかし気流の乱れがどこに潜んでいるかは、パイロットの経験と気象データなどから読むしかなく、現代でも完全な予測は不可能だと言われている。
しばらく返事がないので不審に思い機長の方を向くと、彼はガクッと頭を下げ居眠りしているように見えた。しかし唇だけは何かつぶやいているのか、細かく動いている。
(さっき話しかけられたばかりなのにおかしいな)と思い、もう一度大きい声で呼んでみた。
機長は下げていた顔を、そのままゆっくりと田辺に向けた。その拍子に帽子が床にぽとんと落ちる。
「おまえ誰だよ。なんでこんな所にボクを閉じ込めるんだ」
心底不思議そうな顔をしている。そして両方の頬がどんどんつり上がっていく。
次の瞬間!
今まで聞いたことのない奇声を発しながら、レバーやボタンをでたらめに叩き始めた。そう、まるで駄々っ子のように。そのはずみで機内アナウンスのマイクがオンになる。同時に、機体が激しく揺れ始めた。右に、右にと床が急激に傾いて行く。
「冗談は止めて下さい! もうすぐ着陸ですよ」
しかし機長は子供のように目を輝かせながら、今度は安全ベルトを外して立ち上がろうとしていた。
さすがに彼の“尋常ではない状態”に気付いた田辺は、解除されたオートパイロットを再びオンにすると慌てて席を立った。肩をぐいっと掴み強引に席に座らせると安全ベルトで固定する。次に無線を開き管制塔に連絡後、マニュアル通りの手順で着陸準備を始めた。
最新のフライバイワイヤ操縦システムを搭載しているこの飛行機は、副操縦士のみでも十分な余裕を持って着陸できる機能を備えていた。だが、もし彼がまた暴れ出したら何が起こるかは予測できない。
「大丈夫ですか? 着いたらすぐに病院に行きましょう」
いま必要な手順が全て終わると横を向いて心配そうに声を掛けた。
だが……。
「その帽子カッコいいね! ボクのと替えてくれよ!」
いつの間に拾ったのか帽子を両手でぎゅっと握りしめた機長は、その言葉だけを何度も繰り返す。どうしても欲しいのか床をどんどんと踏み鳴らしながら。
「分かりました。どうぞ」
もはや会話が通じないと悟ったのだろう、田辺の目にうっすらと涙が浮かぶ。そして次に襲ってきたのはとてつもない恐怖だった。自分の尊敬する人のあまりにも急な変貌ぶりが、田辺の背筋を凍らせていく。
「……今の聞きました? これコックピットの会話ですよね」
客席では、アナウンスから流れてくる不思議な会話を聞いていた乗客たちがパニックを起こし始めていた。電話やメールをしだす者や、勝手に席を立ってC.Aに詰め寄る者も現れた。
そのまま十五分ほど機内はざわめいていたが、、C.Aたちの素晴らしい働きと冷静な行動によりパニックはようやく収まった。同じく田辺の冷静で正確な操縦のおかげでANA3779便は予定よりわずか一時間遅れで無事羽田空港に着陸する事ができた。だが、今回の出来事は大問題に発展することは想像に難くない。もしパイロットが一名しかいない飛行機だったら大惨事になっていたはずだからだ。
数十分後、最高レベルの病院に運び込まれた機長の病名は『変異型クロイツフェルト・ヤコブ病』と診断された。
幸いなことに、今までこの病気は日本では一名の症例しか公表されていない。狂牛病と非常に似ていることから関連があるとされているが、発症の原因は現代でも謎のままだ。ただ“異常プリオンが脳に侵入し、スポンジ状になりやがて死に至る”という点では狂牛病と一致していた。
「全く兆候がなく、このような急激な発症は見たことが無い。しかも機長はベジタリアンで牛肉を食べるという習慣が無かった。我々は最高レベルの治療を行うが、今も彼の脳は急速に蝕まれつつあり食い止めることは難しいと思われる」
これは、後ほど機長を診察した脳外科の権威と言われる男の言葉である。
そして、まるでこの日を待っていたかのように日本各地、いや、世界各地でこのような症例が続々と報告され始めた。