ビッグミリオン
『立川市・倉庫』 四月四日
まどかは悪夢を見ていた。自分が犬になって足を車に轢かれ、廃墟をさまよっている夢だ。物悲しい声は自分のものなのか、近くに本当に犬がいたのかは分からない。
高熱にうなされながら目を覚ますと、そこは埃臭く暗い倉庫の中だった。トタンの隙間から日光が一筋伸びて足の辺りを丸く照らしている。
まどかは今、建築資材の積まれた部屋の中央にぽつんと縛り付けられていた。タケシの車の中で失神してからここに運ばれ、ろくに手当てもされていないようだ。暗くてよく見えなかったが、左足は熱をもってぱんぱんに腫れているようだ。
(ひどい頭痛と吐き気はたぶんこの傷のせいだろう)と彼女は思った。この状態が続くと、敗血症を起こしてやがて死亡してしまうことぐらいは知っていた。
だが、知らない事もあった。“春樹の腕がぶら下がったまま”のケースは、金を取り出されてからゴミのように川に捨てられていた事だ。
がちゃん! コツ、コツ、コツ。
倉庫の扉が左右に開くと、まるでそれを待っていたかのように無数の埃がキラキラ踊り出す。
まどかの目が激しい恐怖で見開かれる。きっとオキテによる制裁(リンチ)を加えにタケシが来たと思ったに違いない。
差し込む光の眩しさに顔を背けている隙に、誰かが彼女の後ろに回り込むとすばやく首筋に固い機械のような物を当てた。
ピピピピピ!
電子音が静寂をナイフの刃のように切り裂く。まだ目が霞んで良く見えないようだったが、意を決したように彼女は顔を上げた。
――そこには、服の上からでも分かるくらいに胸板が厚い男が二人立っていた。片方の白髪の男が手帳に何かを書き込むと、唇に人差し指を当てながらそれをまどかの目の前に突き付ける。
〈君を助けたい。死にたくなかったら絶対に声を出すな〉
少し考えたが、弱々しく頷く。どうせこのまま放置されたら死ぬ運命だと考えたのだろう。
〈チップは君の首に埋まっているのか?〉
さっきと同じように頷いた。
〈安心していい。後は我々にまかせろ〉
その文字を読んだとたん、安堵からかまた失神してしまった。唇は渇いてひび割れ、左足の置かれた床にはつぶれた赤い風船のように黒い染みが広がっていた。
人形の様に動かない彼女の前に、軍服を着た背の高い外国人の男たちがいた。
白髪の男が合図すると、部下と思われる男が彼女のチップを覆い隠すようにジェル状のものを塗り始める。緑色のそれは塗っていく先からどんどん固まり、緑の石膏のように彼女の後頭部を覆い隠してしまった。
「もうしゃべってもいいぞ。クラーク、こいつを運び出せ」
「イエス、サー!」
クラークと呼ばれた青年は巧みなナイフさばきで拘束を解くと、ひょいっと肩に乗せた。ちょうど父親が幼い子供を持ち上げるぐらいの体格差だ。
青年はそのまま黒塗りのバンにまどかを積み込み、ドアを開けて白髪の男を迎え入れるとすぐにアクセルを床まで踏み込んだ。
「空港に向かえ。C4の量は?」
「周囲五十メートルは、跡形も残らない計算です」
白髪の男は満足そうに頷くと、トランシーバーに似た機械のボタンを躊躇なく押す。
ごうううんっ!
後方で地鳴りのような大爆発がたて続きに起こり、車のガラスがびりびりと悲鳴をあげる。このような爆発に慣れているのだろうか、彼らの顔色は何一つ変わっていない。
クラークの言葉どおり倉庫は跡形もなく吹き飛んだ。そこには基礎のコンクリートだけが残り、人のいた痕跡など注意深く探してもきっと何も発見できないだろう。
まどかは最後まで気付かなかったが、爆発前の倉庫の片隅に後ろ手に縛られて丸太の様に転がされている男たちがいた。ひょっとすると悪夢の中の物悲しい声は、彼らの悲鳴だったのかもしれない。しかし今となっては確かめる術は無い。
そう、彼らは“金を押収された後に拘束され、丸太のように転がされたタケシたち”であった。
「荷物は一時間以内に届ける。金を科学研究所にまわして調べろ。女は必要な治療を施し、生かしておけ」車が飛行場に着くと、大佐はどこかに電話をかけた。節くれだった指が受話器を握りしめている。白髪は混じっているが、タカのような目を持つ歴戦の古参兵士という印象だ。
電話の先は……横須賀基地の沖合十キロに停泊している、ニミッツ級航空母艦『ジョージ・ワシントン』に乗っている人物であった。
同じころ、横浜支部でモニターを監視していたカエラの耳に、まどかからの信号が完全に途絶えた事を知らせるアラート音が飛び込んだ。
信号が途絶える前の録音を再生後、小首を傾げると彼女はすっと立ち上がった。その足で何故かわざわざ別室まで行きブライアンに電話をかける。
「『チーム6』の常盤まどかからの信号が途絶えました。死亡したと思われます。ただ、直前の音声を再生してみたところ不可解な電子音が聞き取れます」
「電子音? 携帯の着信音かな。『ケガの状態を考えると抗生物質が与えられなければ三日も持たない』という報告だったね。うん、死亡として処理してくれて構わないよ。それから、今まで通り私の信号探知はしないでくれ。いいな?」
「分かりました」
電話を持つブライアンの身体は、少しだが左右にゆっくりと揺れていた。青い空にはカモメが我が物顔で旋回している。もしかしたら、カエラの持つ受話器には風の雑音も入っていたかもしれない。
彼は――空母『ジョージ・ワシントン』の発着デッキにいた。その形のいい唇の片側がつり上がっている事に、甲板員はおろか飛んでいる鳥たちでさえも気づかなかった。