ビッグミリオン
数時間後、バンコクの西、川を渡った所にあるテナントの入っていないビルの階段を三人は降りて行く。降りる途中でセキュリティチェックを一度受けたが、それは武器の所持を確認しているように感じた。
ソムの話では「警官も銃を預け、賭けに来ている」らしい。
地下一階まで降りた時に少しだけ聞こえていた歓声が、地下二階の扉を開けた瞬間に大音声になる。むわっとした空気と共に、耳を塞いで蹲りたくなるレベルだ。
闘技場の中は中央にリングがあり、どうやって詰め込んだか分からない程の観衆が十重二十重にリングを取り囲んでいた。
先頭を歩くソムが殊更あやしい風体の男に声を掛けると、二階席の一画にある〈VIPルーム〉に案内される。今、リング上では赤いパンツのムエタイ男と、黒いタイツを履いたレスラーが激しい戦いの火花を散らしていた。
琴美は人の多さと、タイ人独特の体臭に圧倒され次第に気分が悪くなってきた。だが、夫から離れ、異国の地でこのような危険な場所に潜り込んでいるという現実が、心の中で眠っていた荒々しい気持ちを目覚めさせた。“少なくともここには、夫はいない”という妙な安心感もあった。
このVIPルームにはタイの芸能人だろうか、派手なドレスを着た女に囲まれている男たちがいた。その隣のテーブルに案内された三人に、耳にダイヤのピアスを輝かせた態度の大きな男が近づいて来る。
その男にキャッシュを見せるように強く言われ、チャワリットが席を立ち奥の部屋に消えた瞬間、リングの方で凄まじい歓声が上がった。リングでは血まみれになったレスラーがムエタイの男の膝を“曲がってはいけない方向に曲げていた”。
賭けのチケットの様なものが一斉に汗臭い闘技場に飛び交い、どよめきがしばらく続いた。しばらくするとタンカでムエタイ男はリングの外に運ばれていく。
そんな騒ぎに気をとられているうちにチャワリットが席に戻って来たが、彼の手にはアルミケースはもう無かった。
琴美は口に手をあて驚愕した表情を浮かべる。片言の日本語でソムから説明を受けてはいたが、次のメインイベントで全額を賭けるとは聞かされていなかったようだ。抗議しようと鋭い眼でソムを見たが、彼も緊張しているのかシンハービールをがぶがぶ浴びるように飲んでいた。ついに眼が合ったが、その眼はあの琴美に何も言わせない凶暴な光を発していた。彼女はそのまま風船がしぼむように委縮してしまい、黙って下を向いてしまった。男性から凶暴な気配を感じると、身体が勝手に委縮してしまうのだ。
(こうなったらこの男たちに運命をまかせるしかないわ)
震える手でハンカチをバッグから取り出すと、吹き出した汗をそっと吸い取った。
「うおおおお!」
会場全体が大きな心臓になったように人の群れがうねり出す。いよいよメインイベントのコールが始まったのだ。前回チャンプの金のトランクスの男と、挑戦者の熊のような大男の対戦が始まった。
突然、琴美は顔を上げ意を決したようにソムとチャワリットを見ると、どちらに賭けたのかを思い切って聞いてみた。ソムの瓶ビールの口が示す方向には、金のトランクスを履いたチャンプがいた。
試合は一方的にチャンプが優勢だった。琴美も思わず立ち上がり、今まで出したことのないような大声で応援した。自分がこんな大声が出せる事に気づくと、彼女の顔は数年ぶりに自然に綻んだ。チャワリットもビールの缶を握りつぶしながら大声をあげている。
チャンプの蹴りを頭にまともに受けた大男は、崩れるようにダウンしてカウントが始まった。会場がチャンプコールに包まれると同時に、客が地面を踏み鳴らす音で闘技場は気のせいではなく揺れている。
ぎりぎり九カウントで立ち上がった大男は、ふらふらとコーナーによろめく。チャンスとみたチャンプは怒涛のラッシュをかけた。
だが……そこから悪夢のような出来事が起こった。チャンプの足を血まみれの手で掴んだ大男は、さっきの試合のようにチャンプの足を無慈悲にへし折った。さすがチャンプと言うべきか、ギブアップはせずに果敢に折れた片足で挑んでいく。
「ごきっ」
チャンプがバランスを崩した時、大男の強烈な右フックが彼の顎を捉えた。その瞬間、琴美にはチャンプの首がへんな方向に曲がったように見えた。
ソムは、頭を抱えびっしょりと汗をかいていた。手には五十万ドル分のチケットが握りしめられ、彼の爪は、血が出るほどに手のひらに食い込んでいる。
「負け……たの?」
琴美はチャワリットの方を振り返った。暗くて分からなかったが、眼だけが獣のように光っている。ソムは足早にチャワリットの傍に行くと、何かを耳打ちした。
「コトミ、ゼンブ、マケチャッタヨ。サヨナラネ」
ソムは琴美に近づき、申し訳なさそうに頭を下げた。
「全部って。これからどうするの?」
しかしその問いには答えず、彼はすぐに踵を返すと逃げるようにチャワリットと共にすたすたと歩き出した。
「待って!! マケチャッタヨで済む話じゃないわよ!」
二人を追いかけようとした瞬間、三人の屈強な男たちに彼女は囲まれ腕を乱暴に掴まれた。
「痛い! 何するのよ。離して!」
歓声に負けないぐらいの声で叫んだが、腕をつかんだ手は全く緩まない。
支配人がタイ語で屈強な男たちに指示を出すと、彼女はそのまま別室に連れて行かれた。夫につけられたあざの上から腕を強く掴まれ、引きずられながら鋭い悲鳴を上げたが、男たちはおかまいなしだ。
「ワタシ、ニホンジンダイスキヨ」
支配人は笑顔を作り、片言の日本語で話し出した。だが、その眼は少しも笑っていない。
「私をどうする気なの?」
尋常じゃない危険を感じて金切り声で叫んだが、腕をつかんでいる三人はせせら笑いを浮かべている。身体中の毛穴が開き、本能が「逃げろ!」と激しく警告していた。
「アナタノトモダチ、五十万ドル、イママケタ。アナタノ、カラダモ、カケタ」
次に支配人が言った言葉を聞いて、彼女はその場に崩れ落ち失神した。
「アナタヲ、ドレイトシテ、ウリトバス。モウニドト、ニホンニ、カエレナイヨ」
琴美が最後に見たのは支配人のギラギラした眼だった。
アジアには今も人身売買組織が存在している。日本人女性は特に高く売れ、アラブの大金持ちに大人気らしい。今夜の船で琴美は中国に運ばれ、セリにかけられたあと売られることになっていた。
目が覚めた時、(DV夫と暮らした方がはるかにましだった)と彼女はきっと思うだろう。
一時間後、ソムとチャワリット、そして支配人は〈ハンサー バンコクホテル〉のBARにいた。彼らの手には高級なシャンパンがなみなみと注がれ、見つめあう顔は誰もが満面の笑顔だった。
「日本人の女は可哀想なことをしたな。俺の好みだったのに」
チャワリットはつぶやいた。
「なら、お前が買い取ればいい」
支配人がいやらしい顔でニヤリと笑う。だがその眼は少しも笑っていない。
「俺たち三人で五十万ドルと、彼女を売った金二十万ドル、しめて七十万ドルを山分けだな。ところで俺の演技力はたいしたものだったろ?」
ソムはそういうと、高らかにシャンパングラスを掲げ得意そうな顔をした。