ビッグミリオン
え? 何かが海に落ちたぞ。その音からしてかなり大きいものだと分かる。灯台の光が照らした瞬間に、暗い海にオレンジ色の物体が浮いているのが見えた。驚くべきことに、そこから白い腕みたいものがにょきっと伸び、今度はそれが左右に動き始めたではないか。
あれはまさか……いや、そんなバカな。俺は口をあんぐりと開けていた。それはかなりのスピードでこちらに向かって近づいて来る。暗い夜の海、泳いでこちらに向かって来る人間。これは普通に考えたら、かなり怖い。
「おい、うそだろ? まさか……おまえ何やっちゃってんの?」
それが足元の近くまで来た時に、月の光で今度は顔がはっきりと見えた。頬っぺたのガーゼは剥がれて無くなっていたが、濡れた髪をかきあげるあずさの仕草が月夜にくっきりと浮かぶ。だが、俺は目の前で起こっている事がまだ信じられないでいた。
「謙介さーん。すごい勢いでお尻打っちゃったの。良かったら手を貸して」
「あ、あずさおまえ、飛び込んだのか? あの高さから?」
「うん。忘れ物を届けにきちゃった」
岸の階段になっているところから膝を着き手を伸ばす。掴んだその手は冷たく、服のまま飛び込んだせいかその身体は恐ろしく重かった。髪の毛から水を滴らせながら地面に立つと、彼女はライフジャケットを足元に脱ぎ捨てる。
「あぶねーことすんなよ! ケガしたらどうするんだ? もしかしてサメだっているかもし……」
この言葉は最後まで言えなかった。
なぜなら、言葉の途中であずさがすっと近づき、つま先を上げて俺の唇を塞いだからだ。そして両手をしっかりと俺の背中に回して顔をうずめる。
「ただいま。あのね、写真見たわよ」
「写真? 何の写真だよ。あ! ――もしかして、う、裏も見たのか!?」
しまった! ジャケットのポケットに入れたままだったのを、俺そのまま渡しちゃったんだ!
「もちろん。じゃあ、読み上げまあす。ええとね、『俺の』……」
「うわあああああ! それ以上言うなあ! やめてくれえええ!」
俺は顔を真っ赤にして耳を両手でふさぎ、首をぶんぶん振った。これはたぶん黒歴史になるレベルの呪文だった。
「じゃあ、もう怒らないって約束して」
「はい」
「あと、あたしに言いたいことって?」
「えー、実は前から大好きした」
「あたしも。……ありがと、超嬉しいよ」
なんだよ。もっとカッコいいセリフを、何度も頭の中で練習していたのになあ。だが「いやあ、マイッタなコリャ」と照れているあずさの幸せそうな顔を見ると、そんな事は本当にどうでも良くなってしまった。
「おーい、そろそろ行く……ってお嬢ちゃん! なんでここに?」
車を降りて様子を見に来た親父さんが、あずさを見て驚いている。
「ただいま、春樹おじさん。あずさちゃんがまたパーティーに加わったわよ。ふふ、嬉しいでしょ?」
彼女のびしょぬれの格好を見て、おおよその事を察したようだ。春樹おじさんと呼ばれたのがまんざらでも無いような顔をしながら、俺を肩で突っつく。
「おまえさあ、尻にしかれるなよ」
くっくっくと口に手を当てながら車に戻って行く。
「よし、行こう!」
「うん!」
あずさの手を取り、ハンヴィーに向かって走り出した。その手はまだ冷たかったが、その冷たさが彼女の勇気のある行動をはっきりと思い出させる。これから何があっても俺たちは絶対に離れないと、このとき心の中で誓った。
「あの、申し訳ないんですが、写真返してください」
「だーめ、あれは一生とっとくの。額に入れて飾っとこっと」
いたずらっぽい顔をして俺の胸をつっつく。
「コラコラ、おまえらイキナリいちゃいちゃしてんじゃねーぞ。おじさん何か寂しくなるだろうが。ったく、じゃあ出発するぞ!」
この暗闇の中、あの周辺には何が潜んでいるのか分からない。だが、もし彼らが生きているのなら何とか助け出さなければ。そこには輸血設備があるという話だから、うまくいけば俺もワクチンを手に入れることができるだろう。
「まさかあんたたち、本気であそこに戻るつもり? このまま逃げちゃえば楽なのに……あきれたっていうか、はっきりいってバカね」
助手席で憎まれ口を叩くエリザベートも加え、車は真夜中のハイウェイをぐんぐんと加速していく。