ビッグミリオン
俺は信号で一度車を停めると、グローブボックスにあった軍用ナイフで親父さんの手首と足首の拘束バンドを切り取った。血が通いだした彼の手のひらには、すぐにうっすらと赤みがさしてくる。足をくじいたエリザベートは大人しく助手席に座ってたが、子供のように口を尖らせていた。念のため、車内にあった拘束バンドを使って春樹が後部座席から彼女の手を拘束する。
「痛い! もっと優しくやれないの? ――ねえ、タバコある?」
「痛いじゃねーよ。ったく、俺の時は思いっきり絞めやがったくせに。タバコ? あってもおまえにはやらねーよ」
さっきと立場が逆転した二人のやりとりを見ていると、何となく面白かった。
「さっき親父さんも見ましたよね。ヘリに感染者がたかっている姿を」
「ああ、あれは酷かった。シーズン2までなら、記憶を忘れて最後は眠るように死ねるのにな。他人まで襲うなんて、まったく迷惑なウイルスだぜ」
手のひらをもみながら眉間にしわを寄せる。
「ですね。世界中にシーズン3が広がっていなければいいんですけど。日本は大丈夫だといいなあ」
手元のGPSで位置を確認した後、すぐに出発した。そろそろ日付が変わろうとしている。
「それは帰ってみないと分からないな。……ひとつ疑問があるんだけど、謙介くんの考えを聞かせてくれ。例えば、『ワクチンを既に注射している人』を感染者は襲うと思うか?」
「うーん、分からないですね。人の攻撃本能が目覚めるって事なら無差別に襲うでしょう。けど、本能的に“襲ってもムダだ”と嗅ぎ分けられるならひょっとして大丈夫かもしれませんね」
「なるほど。ひょっとしたらひょっとするのか……」
こうつぶやき、彼は目を閉じて考え込んでしまった。
ガラスの割れた食料店の角を曲がってしばらく走ると、港の端に停泊している〈ライジング・サン〉号の姿を見つけた。既に他の船は出港したのか港に並ぶ船の数は極端に少ない。船の脇にシルバーのセダンが止まっていたが、これは紫苑たちが乗って来たものだろうか。
「見て下さい! あれは……あずさと紫苑、そしてモヒカンたちも。みんな無事で良かった!」
親父さんと目が合うと、彼もほっとしたのかその頬も緩んでいる。
「おーい、急いでくれー!」
全員がこちらを見て、口に手を当てながら大きく手を振っていた。船から歩み板が渡されているところを見ると、どうやら船長ともうまく話がついたのだろう。車をセダンの隣に止めるとドアを開けるのさえもどかしく、満面の笑顔で待つ仲間の所に俺は駆け寄って行った。
「謙介さん、ギリギリだったよ! あと三分で出港する所だった。ほら、ノブがデッキの上から叫んでるだろ? あれ、親父は?」
ふとみると親父さんが後部座席から降り、何食わぬ顔でハンヴィーの運転席に座ろうとしていた。
「親父、何やってんだよ! 船がもうすぐ出ちゃうぞ」
聞こえなかったのか、聞こえてても無視しているのか、親父さんはそのままエンジンをかけた。
一体何を考えているんだ?
俺たちは急いで車の行く手を阻むように取り囲んだ。よく聞き取れないが、ノブが甲板から叫ぶ声のトーンから判断すると、もう本当に時間が残されていないようだ。
「そこをどいてくれ。悪いが、俺は行けない。紫苑、良く聞け。この女が乗って来たヘリに、俺の親父とおまえのクローンが乗っていた。ヘリが襲われて乗組員は全員感染してしまったと思うが、ひょっとしたら親父たちは奇跡的に助かっているかもしれないんだ。その可能性がある以上、俺は……」
「さっきの話ですね? でも、襲われていない見込みはかなり薄いと思いますよ」
この時、車の中で感じた親父さんの考え深げな表情の正体が分かった気がした。
「ダメだって! この国にいたら危険すぎる。俺たちと一緒に日本に帰ろう」
「紫苑、落ち着いて考えてみろ。もし俺がヘリに残されていたらどうする? 生きてる可能性があれば必ず助けに戻るだろ?」
落ち着いた低い声で語りかけながら息子を見つめる。
「……かもな。よし、そこをどいてくれ。俺が行くよ!」
紫苑は春樹の腕を掴み、運転席から強引に降ろそうとする。しかし、春樹はがんとして運転席から降りない。
「まあ聞けよ。鬼頭小次郎って男はな、家に全く帰らない人だったんだ。いつも俺をほったらかしにしてた。俺とおまえの母さんの結婚式にも来なかったんだぜ。だが、たったひとつだけ思い出したんだ。子供の頃、アメリカの病院に注射を打ちに行った時、俺に付き添う親父の笑顔をな……。あんなに優しい顔をした親父を見た事は無かった。『おまえは俺の大事な子供だ』ってその時初めて言ったんだ」
「俺と全くおんなじパターンだな。あの人はその時に『鍵穴』を……。将来こうなるのを見越して」
「あと、おまえはひとつ大事な仕事を忘れているぞ」
「大事な仕事?」
キョトンとした眼で親父を見る。
「母さんの事だ。おまえは母さんをその鬼頭の血で助けるんじゃなかったのか? もう少し経って副作用さえ無かったら、俺の血を輸血した人間からワクチンができるはずだ。そこのお嬢ちゃんたちにも家族がいるんだろ? 責任を持っておまえが日本まで守ってやってくれ」
「でもさ」
「でもじゃない。万が一の時に俺が避難できるところはちゃんと考えてある。メキシコで長く暮らしていたから、生活の基盤がそこにまだ残ってるんだ。ここからそう時間はかからないから心配するな、行けばどうとでもなる」
「じゃあ――約束するか?」
「何をだ」
「この騒ぎが鎮まったら、必ず日本に帰ってくるって。母さんに会ってくれるって」
「ああ、約束する」
鬼頭の血を継ぐ親子は、目を少しうるませながらも固く握ったコブシをぶつけあった。
「おーい、もう待てないぞー! 今すぐに船に乗れ!」
ノブと船員が歩み板を引き込む準備を始めた。
「ちょっと! なに謙介さんまで車に乗ってるのよ! せっかく戻ってきたのに」
親父さんの話を聞いて、俺の気持ちも決まっていた。親父さんひとりであの危険な場所に行かせられない。これは実際にあの現場を見た人にしか分からないだろう。まだ感染者がうようよしているかもしれないのだ。
もう、誰も死なせるもんか!
「ごめん、あずさ。行かせてくれ。俺の性格を知っているおまえなら分かってくれるはずだ」
「ちっとも分からないわよ! どうしていつもいつも謙介さんが危ない目を買って出るの!? だいいち、その頭の傷だって治ってないじゃない!」
「言っただろ? 俺たちはチームなんだ。リーダーとして放っては置けない」
「じゃあ、あたしが今からリーダーになるわよ! 命令よ、車からすぐに降りて!」
子供みたいに泣きじゃくりながら、俺の袖をぎゅっと掴み車から降ろそうと力む。
「心配するな。紫苑が必ずみんなを守ってくれる。それにおまえにも親父とお袋がいるだろ? 日本に帰ってまず無事を確かめるんだ。もし、ヘリが飛ぶようなら俺たちもすぐに追いかけるから」
一度言いだしたら聞かない俺の性格を思い出したのか、袖を掴む力が少しずつ緩んで行く。その代りに窓越しに俺の首に抱き着いて何度も顔を擦りつける。
「絶対に! 今度も絶対に戻って来てね。約束よ。あたしいつまでも待ってるからね」