ビッグミリオン
「出港まで残り三十分か。間に合うかなあ」
高速で流れ去る景色の中で、俺は初めて腕時計に目をやった。水門まではあと五分はかかるだろう。今までやってきたように、放置されている車を巧みに避けながらバイパスをひた走る。
見つけた!
はるか前方に、見慣れたハンヴィーが路肩から発進する様子が目に飛び込んでくる。
とっさに俺はアクセルを緩め、親父さんを救うチャンスを待つことにした。このまま走っている軍用車に向かって闇雲に突撃しても勝つ見込みは薄いからだ。ここはいったん見失わない様に距離をとって、目的地に着いた所で一気に勝負をかけるしかない。
やがて、車はミラフローレス水門の駐車場に入って行った。だが、そこには想像を絶するおぞましい光景が俺を待ち受けていた。
ぎぎぎぎ ぎぎぎぎぎ
これは……何だ? いったい何が起こっているんだ?
あろうことか、人間が黒アリのように大型ヘリに群がっている。色んな所を引っ掻いているこの音から察すると、機内にまだ誰かがいるのかもしれない。地面に転々と散らばるアリ塚から突き出している銃身は、たぶん襲われた兵士のものだろう。まだ煙の立ち上る銃身が、空にそびえ立っている光景はまるで兵士の墓標のようだった。
「地獄だな、これは」
バイクをヘリから少し離れた所に停めて、ハンヴィーの様子をうかがう。車はまっすぐにヘリに近づこうとしていたが、そのあまりにも凄惨な現場の光景に恐れをなしたのか、タイヤから煙を出しながら急ブレーキをかけて止まった。その拍子に後部座席の人間が車の中で吹っ飛ぶ様子が伺える。たぶんあれが親父さんなんだろう。
「なに? これは一体何なのよ! やめてえええ!!」
叫び声のあと、左のドアからエリザベートが飛び出てきた。そして、両手で耳をふさぎながら首を激しく振る。
「おい! 一体あれは、何が起こってるんだ?」
車の中から低い声が響く。しかし、彼女はパニックに陥っているのか、春樹の問いかけに全く気付いていないようだ。これまで計画を順調に積み上げて、もう一歩の所で勝利を逃したその喪失感は計り知れない。
「悪いな、少し痛いぞ」
今がチャンスと見た俺は、後輪から煙を出しながら急発進した。運転席のドアが開きっぱなしのハンヴィーがみるみる目の前に近づいて来る。ぎりぎりエリザベートの手前で急ブレーキをかけ、後輪を滑らせながらタイヤを当てる。彼女は足を払われた格好で一瞬のけぞると、マネキンのように前に軽く吹っ飛んだ。骨は折れない程度に加減はしたが、これでしばらくは動けないだろう。俺はその隙にバイクを乗り捨て、すばやく車に滑り込む。。
「お待たせ、親父さん」
春樹は芋虫のように後部座席で身をよじっていたが、俺の姿を見て安心したのか動きを止める。身動きできないままの姿で感染者たちに襲われる恐怖は、並大抵の事では無かっただろう。
「来てくれたのか! ありがたい」
「親父さんもチームの一員でしょ? 見捨てやしない」
だがなぜか春樹の表情は、喜びよりも悲しみに満ちているように見える。
「実はあのヘリにはな……。いや、なんでもない。おっと、あいつらこっちに気付いたようだぞ! すぐにここを離れないと!」
ヘリの中に人が残されていたとしても、無事だとはとても思えない光景だった。それを見ながら口ごもる春樹の表情には、怒りだけではなく、葛藤と悲しみも混ざっているような気がした。
「了解。でも、ちょっとだけ待ってて下さい」
車を少し動かし、俺は足の痛みでもがいているエリザベートを担ぐと助手席に放り込んだ。
どどどどっ
急に車が細かく揺れ始めたのでふと前を見ると、フロントガラス越しに感染者たちがこちらめがけて雪崩のように走って来るのが見える。その数は……軽く百人を超えているようだ。
「おい、何でそんなヤツを助けるんだよ。そいつのせいで俺たちはひどい目にあっただろ?」
春樹は訳が分からないという風に強い口調で怒りだした。しかし、その格好はちょっと間が抜けていて滑稽でもあった。早く拘束を解いてやらないと可哀想だけれど、今は時間が無い。
「ええ、確かに。けど、そのまま放っとけないでしょ?」
あと十分ほどで船は出てしまうだろう。むすっとした顔で黙り込む春樹にかまわず、停泊しているはずの〈ライジング・サン〉号を目指してハンヴィーを発進させた。
商店街を脱出した紫苑たちは、ノブの案内で〈ライジング・サン〉号が停泊しているブロックに向かった。数十分後、モヒカンがハンドルを握るシルバーのセダンは、港に停泊している中型のコンテナ船の脇で止まる。
船は既にエンジンがかかり、ゴウンゴウンという音が地面を通して伝わってくる。デッキを見上げるノブの必死の大声に反応した船員が、歩み板(陸から船に渡るときに間にかけ渡す板)を降ろす。ノブは慣れた様子でひょいひょいと板を掛け登ると、甲板の奥に消えて行った。
おなじみの赤錆色をしたドライ・コンテナのひとつに、英語で『YOKOHAMA』という文字を見つけたあずさは少しだけだが安心したような顔をみせた。
「お待たせ。船長に交渉してみたよ。キョカ取って来たよ。ただし条件をふたつ出された。いいかい?」
船から降りると、申し訳なさそうに紫苑に近づく。
「遠慮なく言ってくれ」
「この船には船長を始め十九名が乗ってたネ。でもね、病院から六名がまだ帰って来ない。働き手が不足しているから、航海の手伝いをして欲しいヨ。君は頑丈そうなので、いなくなった甲板長の代わりになれ」
「お安い御用だ。二つ目は?」
「君たちのワクチンが欲しいそうデスネ。いいか?」
「うーん。B型の人だけは俺から輸血できるが、その他の人は親父を経由しないと安全は保障できないよ」
「ワカってる。船長はB型です。他は私と数人を除いて臨時の雇われ船員なので、特に愛着は無いんでしょう。それは問題ない」
「ならいいよ。それで、日本には行って貰えるのかい?」
何かが気になるのか、怪訝な顔をしながら聞いた。
「正規の入国方法ではないから、我々の事は絶対に秘密にして下さい。二週間後にはヨコハマだから安心シロって」
ノブは胸をどんっと叩き、握手をするため紫苑に手を伸ばした。
「良かった、これで契約成立だな。じゃあ、あとは謙介さんたちを待つだけだ」
これを聞いて、ノブは伸ばしかけた手を急に引っ込めた。妙な顔をして全員がノブを見つめる。
「ダメです! すぐに出発。十五分後には出発ネ。ここにいたら襲われちゃうデショ? 上で船長から聞いた話では、他の船はどんどん逃げ出してるみたい。怖いことに、襲われて連絡が途絶えた船もいるヨ」
「はああああ!? 十五分じゃ無理だろって。ノブさん、船長にもう一度交渉してきてよ」
あきれた顔をしたモヒカンがノブに詰め寄った。
「よせ、無理を言うんじゃない。乗せてくれるだけでも感謝しないと。でもきっと……謙介さんなら」
「そうよ。あの人なら」
あずさも紫苑と同じ気持ちのようだ。期待を込めた目で遠くを見つめながら頷く。
「じゃあ、キマリ。時間が来たらこの板を引き上げるから、それまでに乗船してネ」
そう言い残すと、ノブは手を振りながらまたデッキへと登って行った。