ビッグミリオン
何かが燃える臭いと、下半身に強い熱を感じて俺は意識を取り戻した。乗っていたバンが足元で炎を上げて燃え始めている。頭の傷が開いて派手に包帯を赤く染めているが、実際は大したことは無いようだ。身体を少しずつ動かして骨折してないことを確かめ、よろよろと立ちあがる。後ろに視線を移すと、紫苑がうめき声を上げながら身体を起こそうとしていた。
「大丈夫か?」
かすれた声で紫苑に声を掛けながらも、目であずさを探す。
(頼む、無事でいてくれ)
身体に火が移りそうなほど燃え盛るバンに限界まで近づいて、誰も乗っていない事を確認する。
「とっさに受け身をとったから……。打ち身だけだと思う。謙介さんは?」
「俺も大丈夫だ。とにかく、今はみんなの無事を確かめよう」
車の反対側に回り込むと、ゴリラに抱きかかえられるようにして倒れているあずさを見つけた。服の前部分は血まみれで、それを見た瞬間、俺の心臓は氷の手で掴まれたように凍った。だが、その太い腕から抜け出そうとしているように、少しずつ身をよじっている。
「良かった! おい紫苑、生きてるよ! あずさも生きてる!」
安心感からかひざががくがくと震えて、立っているのもやっとだった。
「謙介さん! ケガしてない? 紫苑も無事だったのね」
ガラスで切ったのだろうか、あずさのほっぺたには斜め一直線に傷が入っていた。
「大丈夫だ。紫苑、悪いがあずさを手当してやってくれ」
そう言ながら脈を取るためにゴリラの手首を持ち上げる。
「あの時ね……ゴリラさんが咄嗟に私を守ってくれたの。でもね、さ、さっきから全然動かないの」
良くみると、ゴリラの背中には大きな鉄板の破片が深く突き刺さっていた。ちょうど心臓の裏あたりだ。そこからの出血は既に止まっていたが、周りには尋常では無い量の血だまりが出来ている。
その手首からは――まったく脈は感じられなかった。短い間だったが、コイツとの出来事が瞬時に頭に蘇ってきて、何故だか視界がぼやけだした。
「おい、冗談だろ? 目を開けてくれ! 一番頑丈なお前が死んでどうすんだよ!」
しかしいくら揺さぶっても、あのおどけた時に見せる愛嬌のある目が開くことは無かった。
「もう……やめろよ。残念だけど手遅れだよ」
紫苑が俺の肩にそっと手を置く。
涙が止まらなかった。拭いても拭いても後から溢れてくる。俺の運転がもう少し上手かったら、こいつは死ななくてすんだかもしれない。何より、身を挺して仲間を守ってくれたその男気に俺はただ震えていた。
「なんでだよ! なんでこんなに人が死ななきゃならないんだ!」
いつの間にか俺の周りには、傷ついた仲間たちが集まってきていた。モヒカンはリンダを支えながら、涙を流して歯をくいしばっている。前歯が二本欠けて頭にはデカいたんこぶを作っていた。後からリンダから聞いた話では、彼も命を張って彼女を守ったらしい。そう、もう彼を〈チキン野郎〉などと呼ぶやつはいないだろうし、言ったヤツは俺が許さない。
やがて誰が言いだしたわけでもなく、みんな静かにその場で頭を垂れた。そしてこのゴリラと呼ばれた勇敢な男に黙とうをささげる。いま、俺たちにできることはそれが精一杯だった。
粗暴なようで意外と泣き虫で、たまに人懐っこい笑顔を見せるこの男のことを俺たちはずっと忘れないだろう。何よりもみんなの胸を打った事は、その顔が満足げに微笑んでいたことだ。その顔はまるで「どうだい? 俺もやるときは、やる男だろ?」と言っているように見えた。
燃えさかる炎が辺りを明るく照らす中、横たわるゴリラの遺体にすがり「ごめんね、ごめんね」と泣きじゃくるあずさの声だけがいつまでも商店街にこだましていた。
「どこを探しても親父の姿が見つからないんだ。アイツらの車が無いってことはあの女に連れ去られたのかもしれない。それと……」
少しのあいだ姿が見えなくなっていた紫苑が、眉をひそめながら近づいて来る。
「謙介さんさ、まだワクチンを打っていないだろ? それも探してみたけど、親父の血液が入った注射器は割れたか燃えちまったみたいだ。今すぐに何とかしないと」
あずさに心配させないためか、小声で俺にささやいた。
「注射器はもうあきらめるしかないな。まあ、何とかするさ。それより今は、あの女から親父さんを取り戻すことが先決だ」
親父さんの事が心配だろうに、俺の身体も心配してくれるこの男の力になりたいと、この時心から思った。
「ねえ、あれ見て。あそこで倒れている人って、アイツらの仲間じゃない?」
リンダが指さす方向には、白い包帯を赤く染めたアーノルドが虫の息で倒れていた。その先にはもう一人の黒服の男も倒れていたが、こちらはもうぴくりとも動いていない。俺はアーノルドに近づくと、脈を取りつつその口元に耳を寄せた。
「ミラ……フローレス水門に行け……『鍵穴』は彼女が……たのむ、DOLLの仇を」
確かにそう聞き取れた。そうか、この男はDOLLの仇をとろうとしていたのか。
「紫苑、GPSを貸してくれ。そこにいるノブを起こして、先に港に向かうんだ。そして何とか全員乗れるように交渉して欲しい。もし断られても無理やりにでも乗るんだぞ。俺も後から行く!」
ノブもちょうど意識を取り戻したのか、目をこすりながらこちらをぼーっと眺めている。
「いや、俺の親父だし、俺に行かせてくれよ」
炎に照らされたその顔には、強い決意が見えるが……。
「ダメだ。お前にはみんなを守ってもらわないとならない。分かるだろ? それに紫苑、おまえその腕じゃ運転なんてできないぞ」
紫苑の左肘は膨れ上がり、紫色に変色していた。自分でも痛みに気づいていなかったのか、それをみて目を丸くしている。だがもしケガをしてなくても、あずさを、そして大事な仲間を安心して任せられる男はコイツを置いて他にはいない。
「急いで車を探してここを出発してくれ。気づいてるか? さっきから獣のような唸り声が遠くから聞こえて来るのを。やがてここも見つかるだろう。必ず親父さんを連れてくるから安心してくれ」
さっき俺は、鍵のついたリッターバイクが、道路にそのまま放置され転がっているのを見つけていた。車は道路のあちこちにそのまま乗り捨てられているのですぐ見つかるだろう。
返事も聞かずにバイクを起こしてまたがると、幸いな事にすぐにエンジンがかかった。このバイクの機動力とスピードなら、まだ追いつけるかもしれない。
「――分かった。その代わり必ず生きて戻って来てくれよ。よしみんな、ここを出発するぞ!」
「待って!」
荒れ果てた人気の無いレストランから、大きな純白のテーブルクロスを持ってあずさが飛び出てきた。そして、しっかりとした足取りでゴリラに近づくと、それを優しくその身体にそっとかける。
「ごめんなさい。そして守ってくれてありがとう。あなたのこと一生忘れないわ」と両手を合わせた。やがてすっくと立ち上がり、バイクにまたがったままの俺に向かって大きな声で叫ぶ。
「待ってるからね! 絶対に帰って来て! あたしにだって、伝えたい事があるんだから!」
両手をぶんぶん振るあずさに背中を向け、俺は走り出した。そして拳を高々と振り上げる。