ビッグミリオン
旅立ち
『新宿・パークハイアットホテル』 二〇一九年 四月一日 正午
ホテルのミーティングルームに参加者全員が集合した。心なしかほとんどの者が寝不足のような顔をしている。昨日ルール説明を全く聞いてなかったアメリカ人男性二人などは、青白い顔のままぐったりして椅子にもたれていた。彼らの横にちょこんと座っているのは日本人の学生だろうか、やせっぽちの青年だ。心配そうに二人の顔を覗き込んでいる。
「お集まりのみなさま、お待たせしました。いよいよゲームのスタートです! では『チーム1』から順番に私の前に運ばれてくるケースを一つずつお取り下さい。手にとった瞬間から四月の十日までチャレンジタイムになります。各チーム知恵を絞って百万ドル目指して頑張っていただきたい」
ブライアンがぱちん! と指を鳴らすと、テーブルに乗せられたアルミケースが十個運ばれてきた。中にはきっと、びっちりと札束が詰まっているのだろう。
「なお十日はこの場所がゴール地点となりますが、正午までに戻って来ないと失格になりますのでご注意下さい。最後にひとつお願いがあります。もし途中でチャレンジが失敗しても、この資本金の残額はなるべく使い切って下さい」
まず『チーム1』の中国人とアメリカ人二人組がアルミケースを取ると、さっさと部屋を出て行った。
『チーム2』は日本人女性の三人組だ。きゃあきゃあ言いながら重そうにアルミケースを持つと、自分の席に戻りケースを開き何やら相談を始めた。
その様子を横目に見ながら、『チーム3』のスラっとした長身の男が受け取る。彼はその場でケースを開き、後ろが詰まっているのにもかかわらず現金を取りだして確認し始めた。確認後、ゴリラみたいな体型の青年とおばあさんを引き連れて部屋を出て行った。
次にモヒカンの男性が受け取り、ブロンドの女性とサラリーマンがあとに続く。
そしてついに『チーム7』の番が来た。俺が代表して受け取ったが、ずっしりとしたケースは思ったより重かった。あずさと紫苑は無言で後ろに着いて来る。
速足で部屋を出て、さあゲームの始まりだ! と気合いを入れた時……。
「あんたたち約束が違うじゃない! こっちには契約書があるのよ!」
廊下でブロンドの女性が何やら大声で騒いでいる。騒いでいると言うより悲鳴に近い。
「契約書を良く読んでみろよ。チームの内訳に個人名が書いてないだろ? これじゃどっちがどのチームか分からない。しかも四月一日は何年の四月なのかも書いていない。もう既に受け取っているかもしれないんだ。こんな不完全な契約書は無効だよ」
先ほど札を数えていた堅気には見えない長身の男が、契約書らしき紙をひらひらさせながら言った。
「バカ言ってんじゃねえよ! みんなが納得してハンコを押したんじゃねえか。ふざけんな!」
モヒカンの男性がゴリラみたいな体格の男性に掴みかかっている。そこにスタッフであろうか、騒ぎを聞きつけた黒服を着た男たちが音も立てずに集まってきた。
(例の方法を実行したんだな)と思い近づいてみると、案の定その話をしている。
「スタッフさんよお、こんな契約書は気にしなくてもいい。俺たち『チーム3』はチャレンジをクリアしたぜ。さっさと賞金をくれよ!」
アルミケースを二つ持ち上げて、ゴリラが大声で叫んだ。
「それは私たちのものよ! 約束を守れないなら返しなさいよ!」
ブロンド女の顔は真っ赤だ。モヒカンも頑張ったが結局ゴリラに突き飛ばされ、荒い息をしながら燃えるような眼をしてゴリラを睨んでいる。
「では、その二つのケースを持ってスタート地点に戻って下さい。中身を確認して百万ドルあればクリアとします」
黒服の一人が全く動揺せずに冷たく言い放つ。
その時だった!
今まで廊下に背中を付けて黙りこくっていたサラリーマンが、目にも止まらぬ速さでゴリラの顔面に強烈な回し蹴りを入れた。
「ごきっ!」と言う音と同時に、ゴリラの鼻からは血が噴水のように噴き出す。そしてよろよろとその場に崩れ落ちた。黒服を含め、全員がぽかーんと口を開けている。次に目にも止まらぬような速さで、あつしと呼ばれた若者に近づき胸倉を掴み持ち上げる。あのスーツの下に鍛え抜かれた筋肉が隠れていなければ、とても出来ない芸当だ。
「私も遊びでこれに参加した訳じゃない。その紙切れを破って、金を返せ」
落ち着いた氷のように冷たい声だ。
何より一番驚いた顔をしているのがモヒカンくんだった。目を丸くあけ、皮ジャンから突き出た細い腕には鳥肌が立っているのが見える。
「……分かった、分かった。暴力はやめよう。動けないようなケガでもしたらチャレンジは失格だ。金は返す。それでいいだろ?」
つま先立ちにされたまま、あつしはまいったという風に両手を広げる。しかし、その顔は全く動揺しているようには見えなかった。
失神しているゴリラからアルミケースを一つ取ると、ゆっくりとサラリーマンに渡した。ブロンド女は放心状態から解放されて安心したのか、顔を覆って大泣きしている。
「では、これで解決しましたね。両チームともそのままチャレンジを続けて下さい」
黒服たちはそう言い残しさっさと背中を見せて去って行く。床にはびりびりに破られた契約書と、鼻を潰された血まみれのゴリラが転がっていた。
「謙介さん、空席みつけたよ。三人分予約するぜ」
騒ぎを全く気にする様子もなく、後ろの方で携帯をいじっていた紫苑が近づいて来る。その声で俺は我に返った。
そうだ! こんな所で時間を食っている場合ではない。まずは一番早い移動方法を探して、俺たちはすぐに成田に向かわなければならない。
『さいたま市』 同時刻
「こんにちは! 宅急便です」
吉田家のインターフォンが鳴った。ベランダで洗濯物を干していた京子は、リビングのモニターに映る宅配便業者のユニフォームを確認するとドアを開ける。
「何かしらこれ。ビッグ……ミリオン?」
箱は軽い。大きさからタオルであろうか。
(息子の一馬がまた懸賞に応募したのかしら?)と首を傾げながら台所のテーブルにそのまま放り投げ、また日当たりのいいベランダに戻った。
午後には一通り家事も終わり、彼女は一息ついたようだ。テレビドラマの主題歌を口ずさみながらさっき届いた箱を開けた。中からは高級な包装に包まれた白と淡いピンクのタオルが出てくる。
旦那の浩二が工場勤めのため、タオルはいくらあっても助かるようだ。軽い足取りで洗面所まで歩くと洗濯機に放りこむ。
「新しいタオルはあ、一度洗濯すると水分をよく吸うのよー」
主題歌に乗っけて独り言を言うと、またドラマの続きを見に居間に戻って行った。
――この時、まだ京子は知らなかった。この手触りのいい二枚のタオルが、後の自分の人生を大きく変えてしまう事を。