ビッグミリオン
「来る。その交差点を通過するわよ。3、2、1、今よ! すぐ追いかけて!」
エリザベートはハイエナに鋭く命令した。赤茶けた色のバンが右から左に猛スピードで通過する。
ハンヴィーは弾かれたよう発進すると、左にハンドルを切った。その拍子に後部座席のアーノルドはごろごろと転がり、痛みに悲鳴をあげる。
「大げさに痛がってるんじゃないわよ。右手は使えるんでしょ? 銃を持ちなさい」
「はい……分かりました」
アーノルドは床に置いた高性能アサルトライフルを右手で持ち上げ、不器用にコッキングレバーを引いて弾を薬室に送り込む。顔をしかめて痛みに耐えている様子だったが、その顔には憎悪がはっきりと浮かんでいた。
「呼びかけるわ。横につけて! もし止まらなかったらタイヤを撃って」
車の性能差は比べようもない。あっという間に追いつくと、バンの横に並んだ。
「みんなちょっといいかな? 物騒なモノを持ったお姉さんが、何かわめいてるんだが」
風を切る音で彼女が何を言っているのか、よく聞き取れない。だが、その女性が窓から出した手には銀色の拳銃が握られているのがはっきりと見えた。
「……に寄せて……止まりなさい」
時折街灯に照らされる真っ赤な唇が、そう叫んでいるように見える。
「止まれってよ。さて、リーダーくんならどうする?」
その言葉は耳に入っていたが、俺はハンヴィーの後部座席に乗っている人物の顔に注意を奪われていた。あれは――アーノルドじゃないのか。
「ああ、ごめん。あの車にアーノルドが乗ってるみたいだ。ってことは、そこで叫んでる彼女と手を組んだのかな。一度だけ止まって少し様子をみてみよう」
春樹は少しずつスピードを緩め始めた。ゆっくりと路肩に寄せると、バンの前をふさぐ格好でハンヴィーも停まる。
「私はエリザベート。もちろん、あなたたちこのアーノルドは知ってるわよね。さあ、エンジンを切って一人ずつゆっくりと降りなさい。降りたら後ろを向いて、車に手をつくのよ」
彼らは車から一斉に飛び出すと、用心深くこちらに近づいて来る。ヘッドライトに浮かび上がる男たちの手にも銃が握られているようだ。その姿からして、とても話し合いをするという雰囲気ではない。
「鬼頭春樹という人だけに用があるの。彼を素直に渡してくれれば、他の人には危害を加えないわ」
エリザベートは猫なで声で話しているが、その口元にはいやらしい笑みが見え隠れしている。
「エンジンを切っちゃダメだ! コイツらは全ての事情を知ってここに来ている。親父さんが『鍵穴』だってことも承知のはず。だいいち、今までに組織の連中が約束を守ったことがあるか? 不必要な人間は冷酷に処理するだろうし、今までもそうしてきた。――親父さん頼む、俺と運転を代わってくれ」
この場は何とか逃げないと、春樹以外はたぶん殺されてしまうだろう。もう、安全な場所を見つけるなどと言ってる場合じゃない。逃げる車内で何とかしなければ!
「ってことは、あいつらわざわざ俺をさらいに来たのか。ご苦労なこった。でも、他の人に危害を加えないってのは明らかに嘘だな。あいつらが出している殺気は普通じゃない」
俺の行動を察知したのか、とっさに春樹がライトをハイビームにした。敵がひるんだ隙に俺は運転席に滑り込むと、ギアをバックに叩き込んだ。この車内の動きを見るなり、黒服の男が躊躇なく弾をタイヤめがけて撃ちこんでくる。だが、銃弾はアスファルトで火花を散らすだけで幸運にも逸れたようだ。
素早くUターンすると、細い路地を選びつつ決して並走されないように注意しながらアクセルを踏み込む。しかしルームミラーには、ぐんぐん近づいて来るハンヴィーの鼻面が見える。
「親父さん。大事な頼みがある。この状況じゃのんびり輸血なんて言ってられない。乱暴な方法だが、今から紫苑の血液を抜いて直接親父さんに注射してみてくれないか? 俺の考えでは、それでうまくワクチンができるはずだ。本当にあなたが『鍵穴』なら、拒否反応は出ないと思う」
「あたしからも抜いて。紫苑と同じ血が流れているはずだから」
腕をまくりながらニッコリとあずさが笑う。
「いいよ。だが、ひとつ条件がある。――たぶん無理だと思うが、なるべく車を揺らさないでくれよ」
すぐに春樹が紫苑の身体を後ろから固定し、リンダが血管を探し始めた。最後部座席では、モヒカンとゴリラがあずさから慎重に血を抜いている。
車内が揺れた拍子に多少漏れてシートに血痕をつけたが、やがて注射器四本分の血液が用意できた。それを今度は春樹にすべて注射する。あまりにも大量の血液を打たれた春樹の鼻からは、じくじくと鼻血が垂れ始めた。頭痛がひどいのか、眉間にしわを寄せ顔をしかめている。
俺はその様子を横目で見ながら、なるべく揺らさないように運転を続ける。しかし、後ろの車は離れないどころか、この時もう鼻面が当たりそうなくらいに接近していた。
「捕まってしまう前にみんなそれを打ってくれ。俺は最後でいい。親父さん、申し訳ないけどもう少し我慢して下さい」
ふと見ると、血を抜かれたあずさの唇の色が少し白くなっているように見えた。だが今は、春樹の血管から血を抜く作業に集中している。
その作業が終わると、リンダ、モヒカン、ゴリラ、ノブの順番で春樹の血液を注射した。応急的な方法だが、うまく行けばシーズン3に対応できるだろう。あずさ、春樹、紫苑はそのままの状態で問題はない。
「あとは、謙介さんだけよ! 誰かハンドルを持ってあげて!」
車は荒れ果てた商店街を通り抜けようとしていた。店のガラスは粉々に割られ、そこかしこに略奪の跡が見える。
「よし、まかせろ!」
紫苑が助手席から腰を浮かせた瞬間!
突然強い衝撃が後ろから来て、全員が背中をシートに叩きつけられた。その拍子に万能ワクチンが入った最後の一本があずさの手から離れ、床に転がる。ついにしびれを切らしたのか、彼らが車を激しくぶつけてきたのだ。あちらは軍用車、このままぶつけられたらぺしゃんこになってしまう。
「危ない!」
二度目の衝撃が襲って来た瞬間、バンは電信柱をなぎ倒しながら横っ飛びに吹っ飛んでいった。天と地がひっくり返り、激しい衝撃が俺たちを襲う。
――世界は溶けだし、俺は懐かしささえ感じる暗闇にまた吸い込まれていった。