ビッグミリオン
別れ
『パナマ市内』 四月十日 夕方
俺は激しい揺れを感じて目を開けた。口の中が少し気持ち悪いが、霧が晴れたように頭の中がすっきりとしている。何よりも後頭部に妙に心地よい暖かさと柔らかさを感じた。
「何だよあずさ、また泣いたのか。目が腫れてるじゃん」
その言葉に驚いたように、あずさは眼を丸くして口をあんぐりと開けた。
「たたた、たいへん! いま、謙介さんがあずさって呼んだ!」
どうやらここは車の中のようだ。起き上がりまわりを見ると、運転席には春樹、そして見慣れたメンバーが優しい眼をして俺を見てきた。だが異常に揺れる車内の空気を読むと、今はそれどころじゃない様子だ。
「謙介さん、おはよう! あずさのひざまくらは快適だったかい? さっきまでトンネルの中でみんな仮眠をとってたけど、ついに見つかっちゃったよ」
うらやましそうな顔をして紫苑が助手席から振り向いているが、その首は車の揺れに合わせて右に左に揺れている。
「何に見つかったんだ? あれ? 誰か足りなくないか? えーと……。リーマンさんとあつしがいないな」
その言葉を聞いたモヒカンが、後ろの席から耳元まで口を近づけてきた。
「ヤツらは、もういないよ。たぶん海の底に沈んじまった。俺の小切手とともにね」
何か複雑な事情があったのだろうか、モヒカンは言葉のあと口を一文字に結んだ。だが、その眼は「後悔していないよ」と言っているように見える。
「そうか。俺、研究施設からの事を全く覚えていないんだ。誰か説明してくれたらありがたいんだけどな」
ゴリラが代表して、今までの時間を埋めるように簡潔かつ要領を得た説明をしてくれた。
「――で、今この街は感染者が溢れていると。記憶が無くなっちまったみたいだから、あんたも感染したかと心配したぜ。遅くなっちまったけど……俺を庇ってくれてありがとうな」
車の天井にごつんごつんと頭をぶつけながらも、照れ臭そうにお礼の言葉を言ったあと窮屈そうに頭を下げる。
「お互いさまだって。あんたがいなけりゃ森から出られなかっただろ。俺こそ礼を言うよ。ありがとう」
ここでタイミング悪く車が急ハンドルを切った。その結果、俺とゴリラはがっしりと抱き合う形になってしまった。いかん! このままでは妙な誤解を招きかねない。
「ち、違うんだ!」
同時に俺とゴリラが叫んだ。案の定、あずさとリンダは怪訝な目で俺達を見ている。その間にも、車はタイヤから白い煙を上げながら赤信号を無視して左折する。
「うっわあ! こっちもダメだ! ったく、映画に出て来るゾンビだったらゆっくり歩くはずなんだがな。コイツラの中には走るヤツも平気でいるし」
春樹の言葉通り、街は荒廃し始めていた。老若男女すべてが、動く車を見つけると轢かれる事もおかまいなしに全速力で走ってくる。白髪の老婆が、陸上選手さながらのスピードで迫ってくる様子は、恐ろしさを通り越して滑稽でもあった。恐ろしい表情とは対照的に、その眼だけは一様に感情を無くしているように見えた。
日も暮れ街に灯りが灯るころ、猛スピードで走る車内から〈Hospital Punta Pacifica〉と書かれている看板をリンダが見つけた。警戒しながらその大きな病院の駐車場に入ると、見る限りはまだ感染者の姿は無いようだった。それでも注意深くヘッドライトで闇を照らしながら、正面玄関の見える位置に車を停める。
「よーし、みんな聞いてくれ。これからこの病院で輸血を行う。幸いこの辺には人影が見えないが、もしも病院内が感染者であふれていた場合は、輸血の道具だけゲットする。簡単だろ? 最悪、注射器だけでも手に入れよう」
「親父、まず俺が行って様子を見て来るよ。病院で全員が感染したら元も子も無いぜ」
「ひとりで大丈夫なのか?」
春樹の不安そうな目線は、正面玄関に鼻先を突っ込んでチロチロと小さな炎ををあげている車を見ていた。その近くでは救急車が回転灯を回したまま、全てのドアが開き放たれ放置されている。外灯に照らされた運転席のシートには、黒い液体が飛び散っているようにも見える。
「大丈夫だって。まかせとけ」
言うが早いか、車から素早く降りると玄関に向かって走り出す。
「うーん。……無鉄砲というか、勇気があるというか。全く、誰に似たんだろなあ」
俺を含め、そこにいる全員の視線が運転席の春樹に集まった。
ワオォォオン!
病院の駐車場は不気味に静まり返っている。時折、野良犬が物悲しく遠吠えをする以外は全くの無音の時間が車内にも訪れていた。これからの自分たちの運命を、それぞれが頭の中で考えているのだろうか。
紫苑が飛び込んでからもう数十分経ったが、まだ正面玄関からは誰も出て来る気配は無い。
「遅いわねえ。あの人、大丈夫かしら」
車内の重い沈黙に耐えられなくなったのか、あずさは心配な顔で車の窓から顔をぴょこぴょこと出している。
「お嬢ちゃん。あいつなら何とかするよ。でもあと五分もしたら、おじさんも行っちゃうぞー」
「俺も行く。気絶してたぶん働かなきゃな」
もう頭の傷の痛みも気にならない。俺はリーダーなのに迷惑ばかりかけて、足手まといになってしまった。このチームのためなら喜んで死ぬ覚悟はもうできている。
その時……。
「だああああ!!」
「ドゥノッフォロオオオ!!」
明るく照らされた玄関から叫び声が聞こえ、そこに全員が一斉に注目する。
間髪入れずに、段ボール箱を抱えた紫苑と白いタンクトップを着た短髪の若者が、叫びながら正面玄関から飛び出てきた。ふたりの背中を追いかけるように悪鬼のような顔をした白衣の集団と、元患者だろうか、さらに十数人の奇声を上げながらそれに続いている。エントランスの明かりに浮かび上がった彼らの顔は、もう人間ではなかった。
「あのバンまで走るんだ! からのトゥキーック!!」
このままでは追いつかれると思ったのだろうか、走って追いかけてくる先頭の白衣の男にくるりと向き直ると、紫苑が華麗に飛び蹴りをかました。もちろん、段ボールを両手に抱えたままだ。その男がもんどりうって後ろに倒れると、将棋倒しのように他のヤツらも前のめりに倒れてゆく。
「うーん。……なんだろうな、あいつの余裕は。技の名前とか言っちゃってるぜ」
春樹は窓枠に肘を乗せ、頬杖をつきながらあきれたようにつぶやいた。
「親父、この人も乗せてやってくれ! 説明は後でするから」
開けっ放しの助手席に乗り込むと、段ボールを後部座席の俺にそっと渡す。覗き込むと、その中には注射器が数本と、包帯、それに抗生物質と思われるオレンジ色の瓶などが入っていた。その若い男は、後部のハッチを開けると、飛び込むように転がり込む。ぜいぜいと肩で息をしているが、どうやらケガはしていないようだ。
間髪入れず感染者たちが車を囲み、ところ構わず叩き出す。すぐに出発しなければきっと、また赤い手形が増えてしまうだけだ。
バンは感染者を数人弾き飛ばしながら発進する。白衣を着た集団の一部がまた病院内にぞろぞろと戻る様子が、後部座席の窓からぼんやりと見えた。