ビッグミリオン
紫苑の示す方向には、ケンカの最中なのか激しく人影が入り乱れていた。灯台の灯りに時折照らされるその現場の様子は、集団がカップルを襲っているようにも見える。まるで、飴に群がるアリのように。
「no me toques !! ayudame!!」
突然、カップルの女性の声だろうか、闇を切り裂くような切羽詰った声が響き渡る。
「スペイン語で、『ノ メ トケス・アユダメ』って言ってるな」
「親父、意味は?」
「触らないで! 助けて! だ」
「よし、いっちょ助けに行ってくるか。親父も運転で肩が凝っただろ? 一緒に行くかい?」
エンジンを切りドアを開け、車を降りようとした時……。
「ちょっと待て!」
紫苑たちを手で制しながら、大声でゴリラが鋭く叫んだ。
「あれは……。研究所の時と同じだ。あいつらの顔を良く見ろ。野獣そのものじゃないか」
カップルたちは既に砂浜に倒され、そこに数人の男たちが山のように群がっていた。すぐに耳を覆いたくなるような断末魔の叫びが聞こえてきて、そのあと静寂が訪れた。彼らはすでに噛まれるか引っかかれてしまったのだろう。
突然、その中の一人がこちらを振り向き、唸りだした。灯台の光が当たった瞬間、恐ろしいものがくっきりと闇に浮かび上がった。その顔は憎悪に歪み、口のまわりは真っ赤な血で染まっている。おまけに、血だらけの犬歯には服の切れ端がだらーんとぶら下がっていた。その男に呼応するように、集団はこちらを見て唸りながら次々と立ち上がった! そして次の瞬間、信じられないような速さで車めがけて走ってくる!
「おっと、こいつはヤバいな。ドアを閉めろ、逃げるぞ!」
だんだんだん!
ドアを閉めたとたん、悪鬼のような形相の男が窓を力任せに叩きだした。
「きゃあああああ!」
その顔をまともに見てしまったあずさとリンダの口がOの形に開き、同時に顔が恐怖に凍りついた。
「まいったな。エンジンが――かからん」
なんと! ツイいてないことに、さっき切ったばかりのエンジンがかからない。
だだだん だんだん!
既に車は万遍なく取り囲まれ、叩かれるその衝撃で車内はさながらドラムの中にいるようだ。その集団の中に、さっき襲われていたカップルの女性と同じ服装の女も見える。
ふいに、叩く音が止んだ。だがそれは、もっと悪い事態が迫っているのを意味していた。まだ知能が残っているのかは定かではないが、全員で車を倒そうと一カ所に集まり横から力を加えてきたのだ。
やがて片側の車輪がふわっと浮いた。
「親父、俺がおとりになるから、その隙にみんなを逃がしてくれ! モヒカンくんは謙介さんを頼む」
その思いが通じたのか、ついにエンジンが息を吹き返した。あずさとリンダは車が持ち上がらないように、座席を移動して体重をかけている。だが、あと一息で車は横に倒されて、窓ガラスを踏み壊されるのは時間の問題だった。
「みんな何かにつかまれ! 行くぞ」
春樹はアクセルを床までいっぱいに踏み込む。
ごとん! とタイヤが誰かの身体を乗り越えたような音がしたが、かまわず発進する。車の助手席の窓には一番最初に襲ってきた男の手形がはっきりと残っていた。血で描かれたその手形は引っ掻いたような形を残したままぬるい風に当たり、不気味に黒く変色していった。
施設で情報から隔離されたうえラジオも壊れていたせいもあるが、九日の時点でバンカーと呼ばれるホワイトハウスの地下核シェルター〈大統領危機管理センター〉に避難した大統領は、国民に「すぐにこの騒ぎは収束する」と宣言していた。だが残念なことに、ウイルスの突然変異が世界各地で起こっている現在、彼でさえ側近や家族にいつ襲われてもおかしくない状態である事に彼は気づいていなかった。
インターネットの普及するこの世界でさえ、このウイルスの本質には迫れなかったようだ。その一番の理由は……『端末の前で、自分が何をしていたかを急に思い出せ無くなる』からだ。世界中の掲示板の書き込みに、ある瞬間から“まるで突然人が変わったような”意味不明な文字の羅列が並ぶことも珍しくなかった。
今やアメリカ、メキシコ、パナマの上空警戒は穴だらけである。この二十四時間のうちに情報は入り乱れ、やがて収拾がつかない状況になっていった。政府の高官、軍の高官を含む多くの者が感染してしまったら、国の防衛が乱れるのは当たり前の話だ。
ちょうどその頃、パナマの上空に一台の大型ヘリコプター(CH‐47・チヌーク)が超低空で接近していた。
「現在パナマシティの上空。着陸地点をマーキング願います。オーバー」
ここパナマシティは、近代的な高層ビルやホテルが立ち並ぶパナマの中心だ。少し足を延ばすだけでヤシの木が並ぶ美しいパナマシティビーチが広がっている。この時期の昼間のビーチでは、スプリングブレイク期間中の大学生や高校生などが集まり、バカンスを謳歌する姿が見られるはずだった。
だが……。彼らがいるはずのビーチには人の姿は見えない。
ヘリは上空を注意深く旋回すると、指示されたパナマシティから一番近いミラフローレス水門の脇の駐車場に着陸した。ここからは水位を上げ下げして船を通過させる〈レーン〉の様子が良く見える。しかし何故か今は船の通行が停滞しているようだ。レーンの拡張工事の途中らしき現場もあるが、夜だからだろうか作業している人間の姿がひとりもいなかった。
長い髪をなびかせ、ヘリからまず降り立ったのはエリザベートだ。次にハイエナが、そしてなんと、顔を腫らし包帯だらけのアーノルドが降りてきた。
「ねえ、この水門を通るのに、バカバカしい程のお金がかかるのを知ってる?」
ヘリから車を降ろす作業を見守りながら、唇に張り付いた髪の毛をはらうと、彼女は二人に語りかけた。
「いえ、存じません」
ハイエナは首を振る。
「一トンにつき数十セントって決まっているの。でもここを通るのは大型タンカーよね。つまり……数万ドルから数十万ドルのお金がかかるのよ。最高では三十万ドル(日本円で三千万円)を超えたらしいわ」
「それはすごい。これは聞きかじりの知識ですが、パナマ船籍にすると税金がかなり安くなるらしいですね。今や世界の五分の一の船がパナマ船籍になって、あつつつ」
片手を包帯で吊り上げたアーノルドが、痛むのか口を歪めてそれ以上しゃべるのを止める。
彼が来た理由は、復讐のためだった。自分をこんな目にあわせたリーマンたちと、権力者たちに。
「まったく。誰が決めたのか分からないけど大儲けね。もっとも、札束なんてもう何の役にも立たないかもしれないけれど」
自嘲的に笑うと、ヘリから降ろされたハンヴィー(民間仕様名称・ハマー)の座席に乗り込む。同時に六人の私兵が素早く地上に降り立ち、乗って来たヘリの周りを武装して警戒を始めた。
「いい? この街も既に汚染されているという情報が入ったわ。その証拠に、停泊しているタンカーがバラバラに『まるで逃げ出すように』外洋に散って行く様子が見えたでしょ? 手遅れにならないうちに、紫苑の父親を捕まえるのよ。位置はこの端末で分かるわ」