ビッグミリオン
『パナマ共和国・サンチアゴ』 四月十日 早朝
「ここは?」
俺は眩しい朝日に手をかざしながら目をあけた。頭の横の部分が、そこだけ意志を持ったようにずきずきと痛む。何故か背中には柔らかな砂の感触があり、強い潮の香りが鼻孔をくすぐった。
「おーい、お嬢ちゃんたち。謙介くんが目を覚ましたぞー」
謙介?
誰かが――俺の横で大声を上げている。
霞む目を擦りながら起き上ると、逆光で見えにくいが俺の方に何人か走って来るのが見える。その顔は一様に微笑んでいるように感じられた。
「謙介さん! 心配したわよ。大丈夫?」
魅力的な唇を持つ若い女性が目をうるませて、子犬が飛び乗るように胸にすがってくる。その女性の頭越しには顔だちの整った青年が、ほっとしたような顔を覗かせていた。
「あの、あなたたちは?」
その言葉を聞いた若い女性の顔が、瞬時にひきつった。みるみる涙袋から光るものが溢れはじめる。
「あずさよ! 覚えてないの? あの人は紫苑。同じチームの仲間よ」
しおん……仲間?
紫苑と呼ばれたその青年からも微笑みがすうっと消え、眉をひそめながら一番年上と思われる男性と急に何かを話し始めた。
「お嬢ちゃん。ひょっとしてコイツ、感染したのかもしれないぞ」
ゴツい身体をした男が低い声で女性に話しかける。その言葉を聞いた女性の肩が、電気に打たれたようにぴくっと震えた。
「違うよね? ちょっと忘れちゃってるだけだよね? 謙介さんが私たちを忘れる訳がないじゃない!」
叫びながら身体を揺さぶり続ける。彼女の眼から零れ落ちた暖かい涙が、俺の頬を伝いながら包帯に染み込んでいく。
「ダメだって、あずさ。安静にさせとかないと。悪い、みんなちょっと集まってくれ」
その女性は名残惜しそうな目線を俺に向けると、ふらふらと立ち上がり海岸の林の影に歩き出した。波の音で会話はよく聞き取れないが、何かモメているようにも聞こえる。
そのまま打ち寄せる波の音に身を任せて目を閉じると、俺はすぐにまた深い暗闇に飲みこまれていった。
ヤシの木陰には春樹、紫苑、あずさ、モヒカン、リンダが難しい顔をして集まっていた。じりじりと気温が上がりだした砂浜には、朽ち果てた船の上で羽を休める鳥以外は誰も見えない。
「感染している? バカな。だったらゴリラくんにもそれらしい症状が出ているはずだよ。同じ所にいたんだからね」
紫苑の意見はもっともだ。だが、発症には個人差があるはずなので楽観はできない。
「たぶん頭に強いショックを受けただけだと思うよ。明るい所でよく見たら、銃弾で頭皮の肉が軽くえぐれていたからさ。もう少しだけ深かったら助からなかっただろうね」
「あたしもそう思う。一時的なものよきっと。謙介さんに限って、私たちを忘れるはずがないわ」
モヒカンとあずさの言葉に一同は頷いた。しかし、春樹だけは厳しい顔をしている。
「万が一の事を考えて、彼とゴリラくんからは距離を置いた方がいいんだけどな。紫苑と、このお嬢ちゃんは感染の危険がないから大丈夫だが」
「え? ちょっとまてよ。そこのお嬢ちゃんは、まさかもう万能ワクチンを打っているのか?」
目を丸くしたゴリラが、怪訝な顔をして春樹に身体を向けた。
「紫苑から直接輸血を受けたの。副作用もまだ出ていないから、このあと輸血する時、可能なら私の血液もどんどん使って欲しい」
本当に申し訳ないという顔でみんなに頭を下げた。
「では、意見をまとめよう。俺たちは一刻も早く輸血を行わなければならない。今の状況を考えると、もしかしたらもう誰か感染している可能性はある。もちろん『鍵穴』だけじゃウイルスを防げないから、俺も含めての話だ。だが、今はその可能性を論じている時じゃない。これから車を調達してパナマに行き設備の整った病院を探して、やれるだけの事はやってみよう」
春樹の言葉に、全員が首を縦に振った。
数時間後
「オンボロだけど、よく走るなあ。親父、どこでこれを調達したんだ?」
サンチアゴを抜ける〈パナメリカナ自動車道〉を走るバンの助手席から、紫苑が感心したように声を上げた。
赤茶色に色あせた八人乗りのバンは、タイヤを軋ませながら元気に山道を登って行く。このエンジンの快調さに比べれば、ラジオは壊れておもちゃのように飛び出し、エアコンも無く、車の窓からはむっとした熱風が常に容赦なく吹き込んでくる事ぐらいは些細なことだろう。。
「コーヒー農場を偶然見つけてな、俺の指に嵌っていた金の指輪と交換した。おまえの母さんとの結婚指輪だったけど、この際しかたないだろ? 帰ったら頭を下げて許してもらうよ」
ハンドルを右へ左へ忙しく回しながら答えた。その動きに合わせてみんなの首も激しく揺れている。先が見えないようなカーブが延々と続き、車に弱い者は前のシートに爪を立てながら死んだ魚の目をしていた。
サンタマリアの街を右手に見ながら、北東目指してひた走る。山道は緑に囲まれ、休憩で車を停めると傍らにはナマケモノやサル、アリクイなどの姿が見えた。まるでここは天然の動物園のようだ。
「ふー、やっと休憩かあ。少しだけ生き返ったわ。ねえあずさちゃん、あたしちょっと変に思うことがあるんだけど……」
リンダは車の外で大きな背伸びをしながら、足がしびれたのか屈伸運動をしているあずさに話しかけた。
「変って?」
「こんなに走ったのに、ここまでにすれ違った車が一台も無い事に気づいた?」
「そうなの? あたし、謙介さんの頭を固定する事だけに集中してたから――でも、山肌がむき出しの岩壁に突っ込んでいる車が、何台かあったのは見たなあ」
「あたしもそれは見たわ。まさか、他の人間はすでに……」
「もう! 脅かさないでよ。あら、そろそろ出発かしら。おじさんが呼んでるわよ」
そう、農場を出てからここまで、他の人間の姿を見たものはこのチームに一人もいなかった。
太陽が海に隠れる頃、風に潮の香りが強く混ざってきた。ヤシの木もちらほら見えるようになり、車が海沿いを走っていることが分かる。
「よーし、パナマの街に入ったぞ。ここで病院を探そう、っておい! おまえらぐっすり寝てんじゃねえよ」
車を公園沿いに停め、凝り固まった肩を回しながら車内を見ると、みんな仲良くまぶたを閉じていた。もう日はとっぷりと暮れ、船舶の灯りが灯る港には巨大な貨物船が停泊している。ヤシの木に囲まれた公園からはパナマ湾が一望でき、昼間の暑さの残った砂浜には人影もちらほらと見える。
しかし、何かがおかしい。
「ふわあああ。親父、着いたの?」
「てっめえ、一番気持ちよさそうに寝やがって。子供か!」
「うん。昔、親父にドライブに連れてってもらった事を思い出しながら寝ちゃってたよ。んんん、ところで謙介さんは?」
「すやすや寝てるわよ。出血は止まったみたいだけど、山道で酔ったのかしら……膝の上で見事に寝ゲロしてます」
介抱しながら、あずさも少し眠ってしまったらしい。目を擦りながら呼吸を確かめて安心した表情を浮かべると、まだ意識の無い謙介の口元をハンカチで綺麗に拭いている。
「おいおい、大丈夫なのか。気管に詰まらせるなよ。ところでみんな、そこの公園を見てみろ」